義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 *

 
 田口茉莉乃のマンションは、随分と立地のいい場所にあった。
 駅からも近く、人通りの多い通りに面している。その外観からは、ここで起きようとしている事態など想像もできない。
 
 途中で軽井沢さんが出口さんに連絡を入れてくれていたため、エントランスで合流することができた。
 一連の経緯を簡潔に説明し、彰人さんの録音データも聞いてもらうと、出口さんは状況を整理するように、静かに何度かうなずいた。
 
 エントランスを抜け、律の指定した部屋の前で立ち止まる。
 念のため玄関のインターホンを押すが、返事はなかった。
 耳を澄ませても、室内から物音は聞こえない。
 ドアの取手に手をかけると、小さくカチャリと音を立てて開いた。
 鍵はかかっていない。

「……俺が先に入る」

 職業柄、慣れているのだろう。出口さんが一歩前に出た。
 息を殺し、背中越しにもわかるほど神経を張り詰めさせている。
 無言で周囲に目を配り、何かに備えるような間を置いてから、そっとドアを開けた。
 廊下はしんと静まり返り、冷えた空気がわずかに外に流れ出た。
 生活の痕跡はあるのに、異様な静けさだった。
 突き当たりの白いドアの向こうに、わずかに人の気配がする。

 出口さんが警戒体制で白いドアを開ける。
 そこには──椅子に縛り付けられた女性と、律がいた。
 律は女性のそばに立ち、女性は口にガムテープが貼られ、必死に何かを訴えようと身をよじっている。
 
(この人が、田口茉莉乃……)

 彰人さんに指示を出して、非常階段から転落させた張本人。
 名前だけで何度も胸をえぐられた存在が、今、数メートル先にいる。
 でも、本人を目の前にして、怒りとか、憎悪とか、絶望とか、そんなものはなかった。
 ただ、真実がわかってホッとしている自分がいる。
 もちろん、彰人さんがいなくなったことは悲しい。けれど、この人に対して何かしてやろうとか、そういう気持ちは一切湧かなかった。律の怒りとは裏腹に、私は随分と冷静でいられた。
 律が、ゆっくりとこちらを向く。
 
「姉さん……やっと来てくれたね」
「律……」
 
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