義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 数日後の早朝。
 まだ街が眠っている時間帯に、私はひとり新しい保科法律事務所の扉を開けた。
 事務所としては正式オープン前だけれど、時々こうして書類の整理に来たりしている。
 誰もいないと思っていたのに、薄い朝日がブラインド越しに差し込んで、誰かを照らしていた。
 
「軽井沢先生!」
 
 そこに立っていたのは、軽井沢先生だった。
 逆光で表情がよく見えないけれど、そこにいるだけで安心する。
 
「おはよう、菜月ちゃん。早すぎないかい?」
「先生こそ」

 軽井沢さんは、スーツケースを足元に置いている。
 
「今から出発ですか?」
「ああ」
「また数年……。会えないんですね」

 言葉にして初めて、胸のうちに広がっていた寂しさを自覚した。

「……一緒に来るかい?」
 
 不意打ちのように告げられ、思わず息を呑んだ。
 
「えっ……?」
「俺も、優秀な助手がほしいと思っていたところでね」
 
 肩をすくめて、軽井沢さんは眉を上げる。
 ビジネスパートナーとして、私を必要としてくれることは素直に嬉しい。
 でも、私は首を横に振った。
 
「いえ、私は日本でがんばります。それと……」
 
 胸の奥で、長いあいだ絡まり続けていた糸を、そっとほどくように言葉を継いだ。
 
「ここを、辞めようと思ってるんです」
「……そうか。決めたのか」
「はい」
 
 宝堂の名を捨てること。
 彰人さんの遺した「自由に生きてほしい」という想いを、ようやく自分の意志で選ぶこと。
 その選択を、私はようやく真正面から受け止めた。昨夜、養父にも話して許可を得た。
 
「困ったことがあったら、いつでも言ってくれよ。すぐに飛んでいくから」
「ありがとうございます、おじさま」

 私が言うと、軽井沢さんは目を丸くして。
 すぐに目尻を下げて、ふっと微笑んだ。
 
「あ〜〜。いいなぁ、やっぱり」
「ふふっ」
 
 軽井沢さんらしい、照れ隠しのようなやり取りに、思わずこちらも微笑んでしまう。
 やがて軽井沢さんはタクシーで空港へ行ってしまった。
 数時間後、誰もいない事務所を掃除していると、窓辺に淡い空を横切っていく、小さな飛行機が見えた。
 
(あの飛行機かな……)

 ぽつりと、胸の内だけでつぶやいて飛行機を見送る。
 まっすぐに伸びた飛行機雲が、ゆっくりと空にほどけていく。その軌跡を、私はしばらく目で追い続けた。
 所長の机に戻ると、最後の仕事のように丁寧に布でひと拭きする。
 そして、封をした退職届を置くと、今までの出来事が走馬灯のように広がっていく。
 いろいろなことがあった。傷ついたことも、傷つけてしまったことも。
 それでも私たちは、確かに真実へ辿り着いた。その事実だけが、かすかな救いのように背中を支えてくれる。
 自分自身を納得させるように、ひとつ深呼吸をした。
 
「お世話になりました」
 
 静まり返った室内に、自分の声が響いた。
 踵を返し、ゆっくりと出入口に向かって、
 これまでの私の人生に一区切りを告げるように、パタンと優しい音を残して扉を閉めた。

 
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