桜散る前に
第5話 雨宿りの出会い
説明会から三日が過ぎた。
商店街には重苦しい空気が漂っていた。各店主たちは顔を合わせるたびに再開発の話をし、不安と怒りを共有していた。しかし、具体的な対策は見つからなかった。
亜矢は相変わらず父の厳しい指導を受けながら、和菓子作りの修行を続けていた。しかし、心のどこかで、あの日の翔太の表情が引っかかっていた。
「亜矢、集中しろ」
健一郎の厳しい声が工房に響いた。
「すみません」
亜矢は慌てて手元に集中した。練り切りの生地がうまく形にならず、何度もやり直しを命じられていた。
「心ここにあらずでは、良いものなど作れん」
健一郎は娘の様子を見抜いていた。
「何か悩みでもあるのか?」
「いえ、そんなことは…」
「嘘をつくな。顔に書いてある」
亜矢は困った。まさか、再開発を推進する相手方の男性のことを考えているなどとは言えない。
「ただ、商店街のことが心配で…」
「心配するのは当然だ。しかし、それで手を止めていては何も始まらない」
健一郎は作業を続けながら言った。
「職人は、どんな状況でも良いものを作り続ける。それが我々の戦い方だ」
その言葉に、亜矢は父の信念の強さを改めて感じた。
午後、材料の買い出しで商店街を歩いていると、雨が降り始めた。慌てて近くの茶屋の軒下に駆け込むと、そこに既に一人の男性が雨宿りをしていた。
「あ…」
それは翔太だった。今日は作業着のような格好で、手には測量道具を持っている。
「こんにちは」
翔太は気まずそうに挨拶した。亜矢も戸惑いながら会釈した。
「また調査ですか?」
「はい…住民の皆さんにご迷惑をおかけしているのは承知していますが」
翔太の声には、説明会の時とは違う疲労感が滲んでいた。
雨は激しさを増していた。二人は気まずい沈黙の中で、雨が止むのを待つしかなかった。
「あの…」
翔太が口を開いた。
「先日の説明会では、お父様に厳しいことを言われました」
「父は…頑固なんです」
亜矢は小さく答えた。
「でも、おっしゃることは正しいと思います」
亜矢は驚いて翔太を見た。
「え?」
「この商店街の歴史、私も調べさせていただきました。本当に古く、価値のある街並みですね」
翔太は軒下から商店街を見渡した。
「それなのに、私たちは『老朽化』という言葉でしか表現しなかった。失礼なことをしました」
その言葉は、亜矢の予想外だった。敵対する相手が、父の主張を理解しようとしていたのだ。
「でも…それでも再開発は進めるんですか?」
亜矢の問いに、翔太は困った表情を見せた。
「それが私の仕事ですから…」
「仕事だから、歴史を壊してもいいんですか?」
亜矢の声に少し感情が込もった。
「そういうわけでは…」
翔太は言葉に詰まった。
「でも、古いものを守るだけでは、街は衰退していくんです」
「衰退?」
「現実に、商店街の客足は減っていますよね?若い人たちは郊外の大型店に行ってしまう。このままでは、いずれ自然に店が閉まっていくことになりませんか?」
翔太の指摘は痛いところを突いていた。確かに、桜屋も含めて、商店街全体の売り上げは年々減少していた。
「それは…そうかもしれませんが」
「私たちの計画は、歴史を全て消し去るものではありません。古い建物の良さを活かしながら、現代のニーズにも応えられる施設を作りたいと考えています」
「本当に?」
「はい。でも…」
翔太は苦笑した。
「住民の皆さんのご理解を得るのは、想像以上に難しいことが分かりました」
雨が少し弱くなってきた。しかし、二人はまだその場にいた。
「あの、失礼ですが、お名前をお聞きしても?」
翔太が尋ねた。
「高橋亜矢です。桜屋の…」
「娘さんですね。東京から戻られたとお聞きしました」
「ご存じだったんですか?」
「調査の中で、各店舗の状況も調べさせていただいています。大学では何を専攻されていたんですか?」
「文学です」
「文学…素晴らしいですね」
翔太の表情が明るくなった。
「私も学生時代は、建築だけでなく、文学や歴史にも興味がありました」
「建築が専門なんですか?」
「はい。でも今は、開発業務が中心で…」翔太は少し寂しそうに言った。「本当は、歴史的建造物の保存なども学んでいたんです」
その言葉に、亜矢は興味を引かれた。
「それなのに、どうして再開発の仕事を?」
「生活のためです」
翔太は苦笑した。
「理想だけでは食べていけませんから」
亜矢は翔太の横顔を見つめた。彼もまた、理想と現実の間で苦悩しているのかもしれない。
「でも、今回の計画に関わって、改めて思うんです。古いものと新しいものを、うまく融合させる方法があるのではないかと」
「融合?」
「はい。商店街の歴史的価値を残しながら、現代の利便性も取り入れる。そんな開発ができれば…」
翔太の声には、熱意が込もっていた。説明会の時とは全く違う、生き生きとした表情だった。
「素敵ですね」
亜矢は思わずそう言っていた。
「え?」
「その考え方。私も文学を学ぶ中で、古典と現代文学の融合について考えることがありました」
「なるほど」翔太は興味深そうに頷いた。「どのような?」
「古典の美しさや深さを、現代の人にも分かりやすい形で表現する方法です。形は変わっても、本質は受け継いでいく」
「それです!」
翔太の目が輝いた。
「まさにそれが、私の考えている街づくりです」
二人は互いを見つめた。敵対する立場にありながら、共通の価値観を見出したのだった。
雨が上がり、薄日が差し始めた。
「そろそろ行かなければ」
翔太が言った。
「はい」
亜矢も頷いたが、なぜか別れが惜しい気がした。
「また…お話しできればいいですね」
翔太は遠慮がちに言った。
「でも、お父様には内緒で」
亜矢は迷った。父に知られれば、間違いなく叱られる。しかし、翔太ともう少し話をしてみたい気持ちがあった。
「分かりました。でも、どこで?」
「兼六園はいかがですか?人目につきにくい場所もありますし」
「いつ?」
「明日の夕方、ことじ灯籠のところで」
亜矢は少し考えてから頷いた。
「分かりました」
翔太は安堵したような笑顔を見せた。
「ありがとうございます。それでは、また明日」
彼は測量道具を持って、商店街の奥へと歩いていった。
亜矢はしばらくその後ろ姿を見送っていた。雨上がりの街に、虹が薄くかかっていた。
家に帰ると、健一郎が工房で難しい顔をして何かを考えていた。
「お帰り、亜矢ちゃん。雨に濡れなかった?」
美奈子が心配そうに声をかけた。
「大丈夫。茶屋で雨宿りしてました」
「そう、良かった」
健一郎は娘の方を見た。
「亜矢、明日から少し忙しくなる」
「どうしてですか?」
「商店街組合で、再開発反対の署名活動を始めることになった。お前も手伝ってもらう」
亜矢の心が揺れた。明日は翔太と会う約束をしている。
「あの…明日の夕方、少し用事が…」
「用事?何の用事だ?」
健一郎の視線が鋭くなった。
「友人と…会う約束を」
嘘をついてしまった。罪悪感が胸を締め付ける。
「そうか。まあ、夕方ならいいだろう。署名活動は昼間だからな」
健一郎は再び作業に戻った。
亜矢は胸の奥で、複雑な気持ちを抱えていた。父を裏切るようなことをしているのではないか。しかし、翔太と話すことで、何か新しい道が見えるかもしれない。
その夜、ベッドに入ってからも、亜矢は翔太のことを考えていた。
彼は本当に、父が言うような悪い人なのだろうか。今日の会話では、むしろ理解のある、誠実な人に思えた。
明日の約束を、どうするべきなのか。
窓の外では、雨上がりの星が静かに瞬いていた。
商店街には重苦しい空気が漂っていた。各店主たちは顔を合わせるたびに再開発の話をし、不安と怒りを共有していた。しかし、具体的な対策は見つからなかった。
亜矢は相変わらず父の厳しい指導を受けながら、和菓子作りの修行を続けていた。しかし、心のどこかで、あの日の翔太の表情が引っかかっていた。
「亜矢、集中しろ」
健一郎の厳しい声が工房に響いた。
「すみません」
亜矢は慌てて手元に集中した。練り切りの生地がうまく形にならず、何度もやり直しを命じられていた。
「心ここにあらずでは、良いものなど作れん」
健一郎は娘の様子を見抜いていた。
「何か悩みでもあるのか?」
「いえ、そんなことは…」
「嘘をつくな。顔に書いてある」
亜矢は困った。まさか、再開発を推進する相手方の男性のことを考えているなどとは言えない。
「ただ、商店街のことが心配で…」
「心配するのは当然だ。しかし、それで手を止めていては何も始まらない」
健一郎は作業を続けながら言った。
「職人は、どんな状況でも良いものを作り続ける。それが我々の戦い方だ」
その言葉に、亜矢は父の信念の強さを改めて感じた。
午後、材料の買い出しで商店街を歩いていると、雨が降り始めた。慌てて近くの茶屋の軒下に駆け込むと、そこに既に一人の男性が雨宿りをしていた。
「あ…」
それは翔太だった。今日は作業着のような格好で、手には測量道具を持っている。
「こんにちは」
翔太は気まずそうに挨拶した。亜矢も戸惑いながら会釈した。
「また調査ですか?」
「はい…住民の皆さんにご迷惑をおかけしているのは承知していますが」
翔太の声には、説明会の時とは違う疲労感が滲んでいた。
雨は激しさを増していた。二人は気まずい沈黙の中で、雨が止むのを待つしかなかった。
「あの…」
翔太が口を開いた。
「先日の説明会では、お父様に厳しいことを言われました」
「父は…頑固なんです」
亜矢は小さく答えた。
「でも、おっしゃることは正しいと思います」
亜矢は驚いて翔太を見た。
「え?」
「この商店街の歴史、私も調べさせていただきました。本当に古く、価値のある街並みですね」
翔太は軒下から商店街を見渡した。
「それなのに、私たちは『老朽化』という言葉でしか表現しなかった。失礼なことをしました」
その言葉は、亜矢の予想外だった。敵対する相手が、父の主張を理解しようとしていたのだ。
「でも…それでも再開発は進めるんですか?」
亜矢の問いに、翔太は困った表情を見せた。
「それが私の仕事ですから…」
「仕事だから、歴史を壊してもいいんですか?」
亜矢の声に少し感情が込もった。
「そういうわけでは…」
翔太は言葉に詰まった。
「でも、古いものを守るだけでは、街は衰退していくんです」
「衰退?」
「現実に、商店街の客足は減っていますよね?若い人たちは郊外の大型店に行ってしまう。このままでは、いずれ自然に店が閉まっていくことになりませんか?」
翔太の指摘は痛いところを突いていた。確かに、桜屋も含めて、商店街全体の売り上げは年々減少していた。
「それは…そうかもしれませんが」
「私たちの計画は、歴史を全て消し去るものではありません。古い建物の良さを活かしながら、現代のニーズにも応えられる施設を作りたいと考えています」
「本当に?」
「はい。でも…」
翔太は苦笑した。
「住民の皆さんのご理解を得るのは、想像以上に難しいことが分かりました」
雨が少し弱くなってきた。しかし、二人はまだその場にいた。
「あの、失礼ですが、お名前をお聞きしても?」
翔太が尋ねた。
「高橋亜矢です。桜屋の…」
「娘さんですね。東京から戻られたとお聞きしました」
「ご存じだったんですか?」
「調査の中で、各店舗の状況も調べさせていただいています。大学では何を専攻されていたんですか?」
「文学です」
「文学…素晴らしいですね」
翔太の表情が明るくなった。
「私も学生時代は、建築だけでなく、文学や歴史にも興味がありました」
「建築が専門なんですか?」
「はい。でも今は、開発業務が中心で…」翔太は少し寂しそうに言った。「本当は、歴史的建造物の保存なども学んでいたんです」
その言葉に、亜矢は興味を引かれた。
「それなのに、どうして再開発の仕事を?」
「生活のためです」
翔太は苦笑した。
「理想だけでは食べていけませんから」
亜矢は翔太の横顔を見つめた。彼もまた、理想と現実の間で苦悩しているのかもしれない。
「でも、今回の計画に関わって、改めて思うんです。古いものと新しいものを、うまく融合させる方法があるのではないかと」
「融合?」
「はい。商店街の歴史的価値を残しながら、現代の利便性も取り入れる。そんな開発ができれば…」
翔太の声には、熱意が込もっていた。説明会の時とは全く違う、生き生きとした表情だった。
「素敵ですね」
亜矢は思わずそう言っていた。
「え?」
「その考え方。私も文学を学ぶ中で、古典と現代文学の融合について考えることがありました」
「なるほど」翔太は興味深そうに頷いた。「どのような?」
「古典の美しさや深さを、現代の人にも分かりやすい形で表現する方法です。形は変わっても、本質は受け継いでいく」
「それです!」
翔太の目が輝いた。
「まさにそれが、私の考えている街づくりです」
二人は互いを見つめた。敵対する立場にありながら、共通の価値観を見出したのだった。
雨が上がり、薄日が差し始めた。
「そろそろ行かなければ」
翔太が言った。
「はい」
亜矢も頷いたが、なぜか別れが惜しい気がした。
「また…お話しできればいいですね」
翔太は遠慮がちに言った。
「でも、お父様には内緒で」
亜矢は迷った。父に知られれば、間違いなく叱られる。しかし、翔太ともう少し話をしてみたい気持ちがあった。
「分かりました。でも、どこで?」
「兼六園はいかがですか?人目につきにくい場所もありますし」
「いつ?」
「明日の夕方、ことじ灯籠のところで」
亜矢は少し考えてから頷いた。
「分かりました」
翔太は安堵したような笑顔を見せた。
「ありがとうございます。それでは、また明日」
彼は測量道具を持って、商店街の奥へと歩いていった。
亜矢はしばらくその後ろ姿を見送っていた。雨上がりの街に、虹が薄くかかっていた。
家に帰ると、健一郎が工房で難しい顔をして何かを考えていた。
「お帰り、亜矢ちゃん。雨に濡れなかった?」
美奈子が心配そうに声をかけた。
「大丈夫。茶屋で雨宿りしてました」
「そう、良かった」
健一郎は娘の方を見た。
「亜矢、明日から少し忙しくなる」
「どうしてですか?」
「商店街組合で、再開発反対の署名活動を始めることになった。お前も手伝ってもらう」
亜矢の心が揺れた。明日は翔太と会う約束をしている。
「あの…明日の夕方、少し用事が…」
「用事?何の用事だ?」
健一郎の視線が鋭くなった。
「友人と…会う約束を」
嘘をついてしまった。罪悪感が胸を締め付ける。
「そうか。まあ、夕方ならいいだろう。署名活動は昼間だからな」
健一郎は再び作業に戻った。
亜矢は胸の奥で、複雑な気持ちを抱えていた。父を裏切るようなことをしているのではないか。しかし、翔太と話すことで、何か新しい道が見えるかもしれない。
その夜、ベッドに入ってからも、亜矢は翔太のことを考えていた。
彼は本当に、父が言うような悪い人なのだろうか。今日の会話では、むしろ理解のある、誠実な人に思えた。
明日の約束を、どうするべきなのか。
窓の外では、雨上がりの星が静かに瞬いていた。