桜散る前に
第6話 心の扉
翌日の午後、亜矢は商店街での署名活動に参加していた。
「再開発反対!」と書かれた横断幕の前で、健一郎をはじめとする店主たちが道行く人々に署名を呼びかけている。
「お願いします!私たちの街を守ってください!」
「三百年の歴史ある商店街を、壊させるわけにはいきません!」
店主たちの声は必死だった。しかし、足を止めて署名してくれる人は思っていたより少ない。
「亜矢、もっと声を出せ」
健一郎が娘に厳しく言った。
「はい」
亜矢は声を張り上げたが、心のどこかが空虚だった。昨日の翔太との会話が頭から離れない。本当に、この方法だけが正しいのだろうか。
「すみません、署名をお願いします」
通りかかった若い女性に声をかけると、相手は足早に去っていく。年配の人は関心を示してくれるが、若い世代の反応は冷たい。
翔太が言っていた言葉を思い出す。
「若い人たちは郊外の大型店に行ってしまう」
確かに、署名活動を見ても、それが現実だと感じられた。
夕方が近づくにつれ、亜矢の心は落ち着かなくなった。翔太との約束の時間が迫っている。
「お父さん、そろそろ友人と会う約束の時間なので」
「そうか。ご苦労だった」
健一郎は娘の働きを認めるように頷いた。
「今日の署名は思ったより集まらなかったが、諦めてはいかん。継続することが大切だ」
「はい」
亜矢は複雑な気持ちで答えた。
兼六園に向かう道すがら、亜矢は自分のしていることが正しいのか分からなくなっていた。父に嘘をついて、敵対する相手と会う。しかし、翔太と話すことで、何か新しい解決策が見つかるかもしれない。
ことじ灯籠の近くに着くと、翔太は既にそこにいた。観光客も少なく、静かな雰囲気だった。
「お疲れさまでした」
翔太が気遣うように声をかけた。署名活動のことを知っているのだろう。
「こんにちは」
亜矢は気まずそうに答えた。つい数時間前まで、翔太の会社に反対する活動をしていたのだ。
「今日は署名活動をされていたんですね」
「ええ…見てましたか?」
「偶然、通りかかりました」
翔太は申し訳なさそうに言った。
「皆さんの気持ちを考えると、胸が痛みます」
二人は霞ヶ池のほとりのベンチに座った。夕日が池の水面を金色に染めている。
「翔太さん」
亜矢は初めて彼の名前で呼んだ。
「はい」
「昨日おっしゃっていた、古いものと新しいものの融合って、具体的にはどういうことですか?」
翔太は少し考えてから答えた。
「例えば、現在の建物の外観や雰囲気を残しながら、内部を現代的に改装する方法があります。耐震性も確保でき、バリアフリーにもできる」
「でも、それだと費用がかかりませんか?」
「確かに、全て壊して新築する方が安上がりです。でも…」
翔太は池を見つめた。
「本当に価値のあることなら、お金だけで判断すべきではないと思うんです」
その言葉に、亜矢は感動した。
「素晴らしい考えだと思います」
「でも、会社の上層部は理解してくれません」翔太の声が沈んだ。
「効率とコストダウンしか考えていない」
「それで、翔太さんはどうしたいんですか?」
翔太は亜矢を見つめた。
「本音を言えば、この商店街の歴史的価値を活かした開発をしたい。皆さんに喜んでもらえるような街づくりを」
「でも、お父さんたちは開発自体に反対しています」
「分かっています。でも、現状維持だけでは、いずれ限界が来ませんか?」
翔太の指摘は的確だった。実際、商店街の売り上げは年々減少している。
「何か、良い方法はないでしょうか」
亜矢がつぶやくと、翔太は真剣な表情になった。
「あります。でも、とても難しい道です」
「どんな方法ですか?」
「住民の皆さんと一緒に、新しい街づくりプランを考えることです。対立するのではなく、協力して」
「それは…」
「無謀でしょうか?」
翔太の目には、諦めと希望が混在していた。
「無謀かもしれません。でも、試してみる価値はあると思います」
亜矢の言葉に、翔太の表情が明るくなった。
「本当にそう思いますか?」
「はい。でも、私一人ではどうにもなりません」
「僕も同じです」
翔太は苦笑した。
「会社では異端児扱いされています」
二人は静かに池を見つめた。困難な道のりだが、何かが始まりそうな予感があった。
「亜矢さん」
翔太が口を開いた。
「はい」
「もしよろしければ、一緒にそのプランを考えてみませんか?住民側の立場と、開発側の立場から」
亜矢は迷った。父に知られれば、間違いなく大問題になる。しかし、このままでは商店街の未来は暗い。
「私でお役に立てるでしょうか?」
「きっと立てます。亜矢さんは文学を学んだ。表現力も洞察力もある。そして何より、この街を愛している」
翔太の言葉に、亜矢の心が動いた。
「分かりました。やってみます」
「ありがとうございます」
翔太は心から嬉しそうな笑顔を見せた。
「でも、秘密でお願いします。まだ父には言えません」
「もちろんです。僕も会社には内緒で動きます」
二人は固い握手を交わした。敵対する立場から、協力者への転換だった。
帰り道、亜矢は軽やかな気持ちになっていた。翔太と話すことで、閉塞感に包まれていた状況に、一筋の光が見えた気がした。
しかし、家に近づくにつれ、罪悪感も押し寄せてきた。父を裏切っているのではないか。でも、これは父のため、商店街のためでもある。
桜屋に戻ると、健一郎が工房で一人作業をしていた。
「お帰り。友人とは楽しく過ごせたか?」
「はい」
亜矢は後ろめたさを感じながら答えた。
「そうか。たまには息抜きも必要だ」
健一郎の優しい言葉が、かえって胸に響いた。
「お父さん、商店街の未来について、どう考えていますか?」
「未来?」
健一郎は手を止めた。
「今のままで十分だ。伝統を守り続けることが、我々の使命だ」
「でも、お客さんが減っているのも事実ですよね」
健一郎の表情が険しくなった。
「だからといって、魂を売るつもりはない」
「魂を売るって?」
「開発業者の言いなりになることだ。金のために、先祖から受け継いだものを手放すことだ」
父の信念は固い。しかし、その頑なさが、かえって状況を悪化させているのではないか。
「もし、伝統を守りながら、新しいことにも挑戦できる方法があったら?」
「そんな都合の良い方法などない」
健一郎は断言した。
「亜矢、変な期待は持つな。我々にできることは、今あるものを大切に守ることだけだ」
亜矢は黙って頷いた。しかし、心の中では翔太との約束を大切にしたいと思っていた。
その夜、自分の部屋で、亜矢は小さなノートを取り出した。翔太と一緒に考える街づくりプランのアイデアを書き留めるためだった。
「和菓子と建築の融合」
「伝統工芸の体験コーナー」
「若い人にも魅力的な空間づくり」
いくつかのアイデアを書き連ねながら、亜矢は希望を感じていた。まだ漠然としているが、きっと良い案が見つかる。
窓の外では、満月が静かに街を照らしていた。
翔太も、きっと同じ月を見ながら、未来について考えているに違いない。
二人の秘密の協力が、今夜から始まった。
「再開発反対!」と書かれた横断幕の前で、健一郎をはじめとする店主たちが道行く人々に署名を呼びかけている。
「お願いします!私たちの街を守ってください!」
「三百年の歴史ある商店街を、壊させるわけにはいきません!」
店主たちの声は必死だった。しかし、足を止めて署名してくれる人は思っていたより少ない。
「亜矢、もっと声を出せ」
健一郎が娘に厳しく言った。
「はい」
亜矢は声を張り上げたが、心のどこかが空虚だった。昨日の翔太との会話が頭から離れない。本当に、この方法だけが正しいのだろうか。
「すみません、署名をお願いします」
通りかかった若い女性に声をかけると、相手は足早に去っていく。年配の人は関心を示してくれるが、若い世代の反応は冷たい。
翔太が言っていた言葉を思い出す。
「若い人たちは郊外の大型店に行ってしまう」
確かに、署名活動を見ても、それが現実だと感じられた。
夕方が近づくにつれ、亜矢の心は落ち着かなくなった。翔太との約束の時間が迫っている。
「お父さん、そろそろ友人と会う約束の時間なので」
「そうか。ご苦労だった」
健一郎は娘の働きを認めるように頷いた。
「今日の署名は思ったより集まらなかったが、諦めてはいかん。継続することが大切だ」
「はい」
亜矢は複雑な気持ちで答えた。
兼六園に向かう道すがら、亜矢は自分のしていることが正しいのか分からなくなっていた。父に嘘をついて、敵対する相手と会う。しかし、翔太と話すことで、何か新しい解決策が見つかるかもしれない。
ことじ灯籠の近くに着くと、翔太は既にそこにいた。観光客も少なく、静かな雰囲気だった。
「お疲れさまでした」
翔太が気遣うように声をかけた。署名活動のことを知っているのだろう。
「こんにちは」
亜矢は気まずそうに答えた。つい数時間前まで、翔太の会社に反対する活動をしていたのだ。
「今日は署名活動をされていたんですね」
「ええ…見てましたか?」
「偶然、通りかかりました」
翔太は申し訳なさそうに言った。
「皆さんの気持ちを考えると、胸が痛みます」
二人は霞ヶ池のほとりのベンチに座った。夕日が池の水面を金色に染めている。
「翔太さん」
亜矢は初めて彼の名前で呼んだ。
「はい」
「昨日おっしゃっていた、古いものと新しいものの融合って、具体的にはどういうことですか?」
翔太は少し考えてから答えた。
「例えば、現在の建物の外観や雰囲気を残しながら、内部を現代的に改装する方法があります。耐震性も確保でき、バリアフリーにもできる」
「でも、それだと費用がかかりませんか?」
「確かに、全て壊して新築する方が安上がりです。でも…」
翔太は池を見つめた。
「本当に価値のあることなら、お金だけで判断すべきではないと思うんです」
その言葉に、亜矢は感動した。
「素晴らしい考えだと思います」
「でも、会社の上層部は理解してくれません」翔太の声が沈んだ。
「効率とコストダウンしか考えていない」
「それで、翔太さんはどうしたいんですか?」
翔太は亜矢を見つめた。
「本音を言えば、この商店街の歴史的価値を活かした開発をしたい。皆さんに喜んでもらえるような街づくりを」
「でも、お父さんたちは開発自体に反対しています」
「分かっています。でも、現状維持だけでは、いずれ限界が来ませんか?」
翔太の指摘は的確だった。実際、商店街の売り上げは年々減少している。
「何か、良い方法はないでしょうか」
亜矢がつぶやくと、翔太は真剣な表情になった。
「あります。でも、とても難しい道です」
「どんな方法ですか?」
「住民の皆さんと一緒に、新しい街づくりプランを考えることです。対立するのではなく、協力して」
「それは…」
「無謀でしょうか?」
翔太の目には、諦めと希望が混在していた。
「無謀かもしれません。でも、試してみる価値はあると思います」
亜矢の言葉に、翔太の表情が明るくなった。
「本当にそう思いますか?」
「はい。でも、私一人ではどうにもなりません」
「僕も同じです」
翔太は苦笑した。
「会社では異端児扱いされています」
二人は静かに池を見つめた。困難な道のりだが、何かが始まりそうな予感があった。
「亜矢さん」
翔太が口を開いた。
「はい」
「もしよろしければ、一緒にそのプランを考えてみませんか?住民側の立場と、開発側の立場から」
亜矢は迷った。父に知られれば、間違いなく大問題になる。しかし、このままでは商店街の未来は暗い。
「私でお役に立てるでしょうか?」
「きっと立てます。亜矢さんは文学を学んだ。表現力も洞察力もある。そして何より、この街を愛している」
翔太の言葉に、亜矢の心が動いた。
「分かりました。やってみます」
「ありがとうございます」
翔太は心から嬉しそうな笑顔を見せた。
「でも、秘密でお願いします。まだ父には言えません」
「もちろんです。僕も会社には内緒で動きます」
二人は固い握手を交わした。敵対する立場から、協力者への転換だった。
帰り道、亜矢は軽やかな気持ちになっていた。翔太と話すことで、閉塞感に包まれていた状況に、一筋の光が見えた気がした。
しかし、家に近づくにつれ、罪悪感も押し寄せてきた。父を裏切っているのではないか。でも、これは父のため、商店街のためでもある。
桜屋に戻ると、健一郎が工房で一人作業をしていた。
「お帰り。友人とは楽しく過ごせたか?」
「はい」
亜矢は後ろめたさを感じながら答えた。
「そうか。たまには息抜きも必要だ」
健一郎の優しい言葉が、かえって胸に響いた。
「お父さん、商店街の未来について、どう考えていますか?」
「未来?」
健一郎は手を止めた。
「今のままで十分だ。伝統を守り続けることが、我々の使命だ」
「でも、お客さんが減っているのも事実ですよね」
健一郎の表情が険しくなった。
「だからといって、魂を売るつもりはない」
「魂を売るって?」
「開発業者の言いなりになることだ。金のために、先祖から受け継いだものを手放すことだ」
父の信念は固い。しかし、その頑なさが、かえって状況を悪化させているのではないか。
「もし、伝統を守りながら、新しいことにも挑戦できる方法があったら?」
「そんな都合の良い方法などない」
健一郎は断言した。
「亜矢、変な期待は持つな。我々にできることは、今あるものを大切に守ることだけだ」
亜矢は黙って頷いた。しかし、心の中では翔太との約束を大切にしたいと思っていた。
その夜、自分の部屋で、亜矢は小さなノートを取り出した。翔太と一緒に考える街づくりプランのアイデアを書き留めるためだった。
「和菓子と建築の融合」
「伝統工芸の体験コーナー」
「若い人にも魅力的な空間づくり」
いくつかのアイデアを書き連ねながら、亜矢は希望を感じていた。まだ漠然としているが、きっと良い案が見つかる。
窓の外では、満月が静かに街を照らしていた。
翔太も、きっと同じ月を見ながら、未来について考えているに違いない。
二人の秘密の協力が、今夜から始まった。