クズ御曹司の執着愛
ジュエリー店を後にし、夜の街を抜けて車を走らせながら、忠相がハンドルを握ったまま問いかけた。

「伊織、腹はへっているか?」

「……うん、空いてる」

「何が食べたい?」

「なんでもいいの?」

「ああ。だから聞いているんだ」
忠相の声には、どこか苛立ちがにじんでいた。
「……早く言え」

「……とんかつが食べたい」

「わかった」

それだけ言うと、忠相は迷いなくハンドルを切った。
ウインカーの音とともに車は大通りを外れ、静かな道へと入っていく。

車を降りた伊織は、目の前の店を見上げて思わず声を漏らした。

「……ここって。まだ、あったんだ」

忠相は当然のように歩を進める。
「たまに来る。親父さんは、いまだに現役だ」
少しだけ口調が和らぐ。
「相変わらず、うまいぞ」

暖簾が揺れ、油の匂いが夜気に混じった。



そこは大学時代、サークル仲間と何度も足を運んだ馴染みのとんかつ屋だった。

「こんばんわ」
忠相がのれんをくぐる。伊織もその後に続いた。

「あ、いらっしゃい!」
カウンターの奥から店主が顔を出し、にこやかに声をかける。
だが忠相の後ろにいる女性に気づいて、目を丸くした。
「あれ? そちらは……? 今日は一人じゃないのか?」

一瞬きょとんとしたあと、すぐに目を細める。

さらに嬉しそうに続ける。

「珍しいこともあるもんだなあ。
しかも――女性なんて」

その言葉に、伊織は思わず肩をすくめた。

店主はそう言ってから、伊織の顔をまじまじと見つめた。

「……ん? どっかで見た顔だな」

店主は一拍置き、伊織に向かって首を傾げた。
記憶の糸をたぐるように、ゆっくりと問いかける。

「以前、うちに来たこと、あるかい?」

伊織が小さく会釈をし、答える。
「森田です。……ご無沙汰しています」

「おお、森田さんか! 覚えているよ。久しぶりだなあ。嬉しいねえ!」
店主はにこやかに言いながら、ふと二人を見比べ、ふと思い出したように言った。
「伊織ちゃんだろう? 越前コンビ、懐かしいな!」

サークル仲間は、時代劇ドラマ大岡越前で、親友同士だった“大岡忠相と榊原伊織”の名前からもじって、ふたりをそう呼んでいたのだ。

忠相と伊織。
当時も何かと一緒に組まされることが多く、そのたびに冷やかし半分で「越前コンビ」と呼ばれていた。

「……そんなこともあったな」
忠相の口元にかすかな笑みが浮かぶ。

伊織は赤面し、視線を逸らした。

「へえ……そうかそうか。なるほどなあ」
目尻に笑い皺を寄せ、ぱっと表情を明るくする。
「いやあ、まさか忠相と伊織ちゃんが、こうして並んで来る日が来るとは!」

「……え?」
伊織の頬が、一瞬で熱を帯びる。

店主は大きくうなずき、何気ない調子で続けた。

「学生の頃から、お似合いだと思ってたんだよ。
やっぱり、縁があるんだなあ!」

さらに、追い打ちのように言う。

店主は大きくうなずきながら、続けた。

「忠相、よかったなあ。……二十年待ったかいがあったってもんだ」

「…え?」
伊織は思わず店主を見つめる。
(二十年……待った? どういうこと……?)

店主はにこにこ笑いながらカウンターの奥へ戻り、声を張り上げた。
「ビールはどうだ? サービスするぞ!」

忠相はそのまま笑顔を崩さず、軽く頷いた。
「いいですね。いただきます」

店主の朗らかな声と、油の弾ける音が店内に広がる。
だが、伊織の胸の奥には、言いようのないざわめきが残っていた。

その時、忠相の携帯が震えた。
「悪い、ちょっと出てくる。先に食べ始めてくれ」

「わかった」
伊織は小さくうなずき、カウンターに視線を落とす。

忠相が外へ出たちょうどその時、おかみさんがビールと漬物の小鉢を運んできた。
「はい、お待たせ。……あらー!」

目を丸くしたおかみさんが、伊織を見つめる。
「伊織ちゃんじゃないの! 懐かしいわあ。よく来てくれたわね」

「ご無沙汰してます」
伊織は思わず笑みをこぼした。

「学生の頃、みんなで大騒ぎして食べていったものね。……変わらないわ、可愛らしいまま」
おかみさんの声には親しみがこもっていた。

伊織の胸に、懐かしさとともに少しの安らぎが広がる。
(……あの頃は、ただ楽しくて。クズ男に振り回されることもなかったのに)
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