クズ御曹司の執着愛
「伊織?」

耳に届いた懐かしい声に、胸が熱くなる。
振り向くと、そこに真樹の第一秘書の黒崎龍之介が立っていた。

「龍ちゃん……! お久しぶり。元気そうだね」

「ああ、久しぶりだな、伊織。……神崎さんは元気か?」

神崎さんは祖父の道場を継いだ人。龍之介とともに剣道を学び、伊織も子供の頃によく手合わせをしてもらった。

「元気そうよ。ただ、最近は道場に顔を出せていなくて」

「そうか……」
龍之介の口元に浮かんだのは、昔と変わらない穏やかな笑み。
その表情に胸が少し締め付けられる。

「……」

その二人のやりとりを、忠相は黙って見ていた。
グラスを握る指にわずかに力がこもる。
伊織の柔らかい声音、親しげな呼び方、「龍ちゃん」
その全てが癇に障る。

「……随分と、楽しそうだな」
忠相の声は低く、嫉妬を隠しきれていなかった。

その時、龍之介の後ろから澄んだ声がした。
「龍之介さん」

振り向けば、そこには龍之介の妻の美咲が立っていた。

「あら……やだ、伊織と忠相じゃない。久しぶり! こんなところで会えるなんて」

「美咲さん、こんばんは」
伊織は慌てて会釈する。

「久しぶりね、伊織。元気そうで安心したわ」

龍之介が横から問いかける。
「知り合いなのか?」

美咲はにっこり微笑んで頷いた。
「ええ。大学のサークルの後輩なの。この子たちはね、『越前コンビ』ってあだ名がついてたのよ」

「越前コンビ?」
龍之介が目を細める。

「そうよ。大岡越前と榊原伊織。二人でいつも一緒にいて、口喧嘩ばかりしてたの」

「なるほど……!」
龍之介は堪えきれずに笑い出した。
「アハハ、それは面白いな」

美咲も楽しそうに肩を揺らし、会話の輪に柔らかい笑い声が広がっていく。

「じゃあ、ちょうどいいな」
龍之介がふと笑みを浮かべて言った。

「え? 何が?」
美咲が首を傾げる。

「会長の希望で、今月から森田さんがうちの不動産部門に加わることになったんだ。学生の時から気心知れている二人なら、期待以上の結果が出そうだな」

美咲は目を見開き、それから柔らかく笑った。
「そうね。あの頃から真面目でしっかりしてたもの。伊織ならきっと力になれるわ」

伊織は軽く会釈を返した。
けれど隣で黙っていた忠相の沈黙が、重たく、妙に圧を帯びて感じられた。


「美咲さんが龍ちゃんと結婚したのは驚きました」

「うん、私も」
美咲が軽く笑みを浮かべて言う。

「どういう意味だ?」

「年齢的な意味よ」
美咲が肩をすくめると、龍之介は苦笑しながら「そうか」と答えた。

「伊織は? 結婚する気はないの?」

「ないですね〜」
さらりと返すと、美咲が思い出したように言葉を添えた。
「忠相もずっと独身よね。……ねえ、伊織、忠相じゃダメなの?」

思わず息を呑む。
「とんでもない。願い下げです」

忠相の眉がぴくりと動いた。むっとした表情を浮かべるが、何も言わない。
ただ、グラスの中の氷が小さく音を立てた。

「美咲、そろそろ戻らないと」
龍之介が穏やかに声をかける。

「あ、私も……」
伊織は便乗するように腕時計をちらりと見て、その場を離れた。


残された忠相は、黙ったままグラスを傾ける。
胸の奥をじりじりと焼く嫉妬。
そして伊織から突きつけられた拒絶の言葉が、耳の奥でこだましていた。

グラスの氷が溶けて、からんと音を立てた。
伊織の声がまだ耳に残っている。

 『とんでもない。願い下げです』

思い出すだけで、胃の奥が灼けるように熱くなる。
まるで二十年前に逆戻りしたかのようだ。
あの夜と同じように、また俺は彼女に拒絶された。

龍之介の前で、笑顔を見せていた。
「龍ちゃん」と呼んで親しげに話す、その表情。
俺には一度も向けられなかった。

なぜだ。
なぜ伊織だけは俺に背を向け続ける?
女は皆、俺の言葉に揺れ、俺の手に落ちていったのに。

唇を噛む。
その痛みすら、苛立ちを鎮めることはできない。

……いいだろう。
今度こそ逃がさない。
二十年前に果たせなかった雪辱を、必ず果たしてやる。
彼女の口から「願い下げ」ではなく、
「あなたが欲しい」と言わせるその日まで。
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