クズ御曹司の執着愛
颯真の命令は、忠相に容赦がなかった。
「沢口常務。来週から一週間、会長と海外案件の現地視察に行ってください」
社長室に、わずかな沈黙が落ちる。
忠相は即座に顔を上げた。
「……伊織も同行させてください」
一拍。
颯真は忠相を見つめ、それから静かに首を振った。
「却下です。森田さんは滝沢ホールディングスの社員ではない」
淡々と、事務的に。
そこに私情も、配慮もなかった。
忠相は何も言い返さなかった。
だが、その沈黙の奥で、何かが軋んだ音を立てていた。
その夜。
灯りを落としたリビングには、二人きりの静けさが満ちていた。
忠相はソファに腰掛けたまま、しばらく口を開かなかった。
やがて、堪えきれないように低く言う。
「……伊織。一週間も離れていたくない」
押し殺した声だった。
「たったの一週間よ」
伊織は穏やかに返す。
責めるでも、拒むでもない。
「それでも、だ」
忠相は顔を上げ、まっすぐに彼女を見る。
「お前と片時も離れたくない。
朝も、夜も……何もかもだ。
お前がいない時間なんて、考えたくない」
それは愛だった。
同時に、切実な恐怖でもあった。
伊織は少しだけ目を伏せる。
そして、ひっそりと微笑んだ。
胸の奥で、何かを決めた人の笑みだった。
「……待っているから」
忠相の眉が、わずかに動く。
「え?」
伊織は顔を上げ、静かに続ける。
「ここにいる。
忠相が帰ってくる場所に、ちゃんといるから。
だから、そんなに不安にならないで」
次の瞬間、忠相は伊織を強く抱きしめていた。
逃がさないように、縋るように。
「……毎日、必ず連絡してくれ」
「うん」
「ほかの男と、二人きりにならないでくれ」
「うん」
「暗くなったら、ちゃんと家に帰ってきてくれ」
「うん」
伊織は、すべてを受け止めるように頷く。
忠相は彼女を抱きしめたまま、さらに低く懇願した。
「なあ……前に言ってたよな。
“結婚してもいいかも”って」
伊織は一瞬、目を瞬かせる。
「……そうだっけ?」
「言ったぞ!」
忠相は思わず声を強める。
「そっかぁ……」
伊織は少し考えるように間を置き、柔らかく言った。
「うん」
忠相は、その一音に希望を見た。
「帰ってきたら、結婚してくれ。
もう待ちたくない」
伊織は忠相の胸に頬を寄せたまま、静かに答える。
「……ちゃんと考える。
もう少しだけ、待って」
忠相は一瞬、迷うように息を止め、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
だが、抱きしめる腕の力は緩まない。
沈黙のなかで、忠相が低く問いかけた。
「伊織。
“考える”って、何をだ?」
伊織はすぐには答えなかった。
彼の胸に耳を当て、規則正しい鼓動を感じながら、言葉を探す。
「……忠相が私のことを愛してくれているのも、
大切にしてくれているのも、守ってくれているのも……全部、わかっている」
忠相の腕が、わずかに強まる。
「結婚すれば、もっと守られることになる気がするの。
それが悪いって言いたいわけじゃない。ただ……」
伊織は一度、息を吸った。
「今の私はね、
守られていることで、安全と同時に……不安も感じている」
「不安?」
忠相の声に、明確な困惑が混じる。
「どうしてだ。
俺は、お前を不安にさせたいわけじゃない」
伊織は小さく笑った。
けれど、その笑みはどこか脆い。
「一生、このまま守られていくのかな、って思うとね……
すごく受け身で、弱くなる自分がいる気がするの」
忠相の眉がわずかに寄る。
「弱くなる?」
「うん。
自分で決めなくても、選ばなくても、
忠相が全部先に用意してくれるでしょう?」
彼女は胸に手を当てる。
「それが楽で、心地よくて……
でも同時に、私がどんどん小さくなっていく気がするの」
忠相は思わず問い返した。
「俺に守られると、伊織が弱くなるっていうのか?」
責める口調ではない。
だが、理解できないという戸惑いがはっきり滲んでいた。
伊織は首を振る。
「……理屈じゃないの。
ただ、そう感じるってだけ」
「理由は?」
「わからない」
正直な声だった。
「でもね、
こんな気持ちのままで……忠相の“妻”が務まるのかなって、思ってしまうの」
忠相は黙った。
伊織の言葉を否定することも、すぐに抱きしめ直すこともせず、ただ受け止める。
自分が伊織を守ることで、彼女が弱い立場に置かれてしまう――
理屈としては理解できる。
だが、それが「なぜだめなことなのか」は、どうしても腑に落ちなかった。
忠相にとって、伊織を守ることは選択ではない。
決意だった。
一生、守る。
それは誰に何を言われようと、揺らぐものではない。
その一方で、伊織が結婚という言葉を口にし、二人の一緒の未来について考えようとしていることも、確かに感じ取っていた。
逃げようとしているわけではない。
向き合おうとしている。
その事実が、忠相の胸にわずかな安堵をもたらす。
今は、それで十分だった。
忠相は何も言わず、伊織を抱きしめ続けた。
背中に回した手で、ただ一定のリズムで、優しく撫でる。
離さないと誓うように。
それ以上、踏み込まないと自分に言い聞かせるように。
深夜。
寝室を出た忠相は、リビングで携帯を手に取る。
ためらいはなかった。
発信先は、滝沢真樹の妻だった。
静まり返った部屋に、呼び出し音だけが低く響いていた。
「沢口常務。来週から一週間、会長と海外案件の現地視察に行ってください」
社長室に、わずかな沈黙が落ちる。
忠相は即座に顔を上げた。
「……伊織も同行させてください」
一拍。
颯真は忠相を見つめ、それから静かに首を振った。
「却下です。森田さんは滝沢ホールディングスの社員ではない」
淡々と、事務的に。
そこに私情も、配慮もなかった。
忠相は何も言い返さなかった。
だが、その沈黙の奥で、何かが軋んだ音を立てていた。
その夜。
灯りを落としたリビングには、二人きりの静けさが満ちていた。
忠相はソファに腰掛けたまま、しばらく口を開かなかった。
やがて、堪えきれないように低く言う。
「……伊織。一週間も離れていたくない」
押し殺した声だった。
「たったの一週間よ」
伊織は穏やかに返す。
責めるでも、拒むでもない。
「それでも、だ」
忠相は顔を上げ、まっすぐに彼女を見る。
「お前と片時も離れたくない。
朝も、夜も……何もかもだ。
お前がいない時間なんて、考えたくない」
それは愛だった。
同時に、切実な恐怖でもあった。
伊織は少しだけ目を伏せる。
そして、ひっそりと微笑んだ。
胸の奥で、何かを決めた人の笑みだった。
「……待っているから」
忠相の眉が、わずかに動く。
「え?」
伊織は顔を上げ、静かに続ける。
「ここにいる。
忠相が帰ってくる場所に、ちゃんといるから。
だから、そんなに不安にならないで」
次の瞬間、忠相は伊織を強く抱きしめていた。
逃がさないように、縋るように。
「……毎日、必ず連絡してくれ」
「うん」
「ほかの男と、二人きりにならないでくれ」
「うん」
「暗くなったら、ちゃんと家に帰ってきてくれ」
「うん」
伊織は、すべてを受け止めるように頷く。
忠相は彼女を抱きしめたまま、さらに低く懇願した。
「なあ……前に言ってたよな。
“結婚してもいいかも”って」
伊織は一瞬、目を瞬かせる。
「……そうだっけ?」
「言ったぞ!」
忠相は思わず声を強める。
「そっかぁ……」
伊織は少し考えるように間を置き、柔らかく言った。
「うん」
忠相は、その一音に希望を見た。
「帰ってきたら、結婚してくれ。
もう待ちたくない」
伊織は忠相の胸に頬を寄せたまま、静かに答える。
「……ちゃんと考える。
もう少しだけ、待って」
忠相は一瞬、迷うように息を止め、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
だが、抱きしめる腕の力は緩まない。
沈黙のなかで、忠相が低く問いかけた。
「伊織。
“考える”って、何をだ?」
伊織はすぐには答えなかった。
彼の胸に耳を当て、規則正しい鼓動を感じながら、言葉を探す。
「……忠相が私のことを愛してくれているのも、
大切にしてくれているのも、守ってくれているのも……全部、わかっている」
忠相の腕が、わずかに強まる。
「結婚すれば、もっと守られることになる気がするの。
それが悪いって言いたいわけじゃない。ただ……」
伊織は一度、息を吸った。
「今の私はね、
守られていることで、安全と同時に……不安も感じている」
「不安?」
忠相の声に、明確な困惑が混じる。
「どうしてだ。
俺は、お前を不安にさせたいわけじゃない」
伊織は小さく笑った。
けれど、その笑みはどこか脆い。
「一生、このまま守られていくのかな、って思うとね……
すごく受け身で、弱くなる自分がいる気がするの」
忠相の眉がわずかに寄る。
「弱くなる?」
「うん。
自分で決めなくても、選ばなくても、
忠相が全部先に用意してくれるでしょう?」
彼女は胸に手を当てる。
「それが楽で、心地よくて……
でも同時に、私がどんどん小さくなっていく気がするの」
忠相は思わず問い返した。
「俺に守られると、伊織が弱くなるっていうのか?」
責める口調ではない。
だが、理解できないという戸惑いがはっきり滲んでいた。
伊織は首を振る。
「……理屈じゃないの。
ただ、そう感じるってだけ」
「理由は?」
「わからない」
正直な声だった。
「でもね、
こんな気持ちのままで……忠相の“妻”が務まるのかなって、思ってしまうの」
忠相は黙った。
伊織の言葉を否定することも、すぐに抱きしめ直すこともせず、ただ受け止める。
自分が伊織を守ることで、彼女が弱い立場に置かれてしまう――
理屈としては理解できる。
だが、それが「なぜだめなことなのか」は、どうしても腑に落ちなかった。
忠相にとって、伊織を守ることは選択ではない。
決意だった。
一生、守る。
それは誰に何を言われようと、揺らぐものではない。
その一方で、伊織が結婚という言葉を口にし、二人の一緒の未来について考えようとしていることも、確かに感じ取っていた。
逃げようとしているわけではない。
向き合おうとしている。
その事実が、忠相の胸にわずかな安堵をもたらす。
今は、それで十分だった。
忠相は何も言わず、伊織を抱きしめ続けた。
背中に回した手で、ただ一定のリズムで、優しく撫でる。
離さないと誓うように。
それ以上、踏み込まないと自分に言い聞かせるように。
深夜。
寝室を出た忠相は、リビングで携帯を手に取る。
ためらいはなかった。
発信先は、滝沢真樹の妻だった。
静まり返った部屋に、呼び出し音だけが低く響いていた。