クズ御曹司の執着愛
伊織は、カップを両手で包み込んだまま、しばらく黙っていた。
立ちのぼる紅茶の湯気が、視界をやわらかく曇らせる。
「……忠相さんの婚約者になって、初めてわかったことがあるんです」
美和子は何も言わず、ただ頷いた。
「忠相さんが、どれほどのものを背負っているのか。
どれほど……すごい人なのか」
言葉を選びながら、伊織は続ける。
「妻になれば、もっと責任が増えていくと思います」
「私は一般家庭の出なので……それを本当の意味で想像することしかできない」
カップの縁を指でなぞりながら、伊織は小さく息を吐いた。
「今だって、忠相さんに守られていることが多いんです」
「それが、責任の重さと比例するみたいに……忠相さんの庇護欲も、きっと強くなる」
声が、わずかに震えた。
「そうしたら私は」
一瞬、言葉に詰まる。
「……ますます、弱くなる気がするんです」
美和子の視線は揺るがず、急かすことも、遮ることもなかった。
美和子は、紅茶を一口含んでから、穏やかに視線を戻した。
「伊織ちゃんは……忠相くんのことを、どう思っているの?」
伊織は少し考えてから、静かに答えた。
「……大切な人です」
「それは」
美和子は声の調子を変えずに続ける。
「“愛している”という意味かしら?」
一瞬、言葉が喉に引っかかった。
「……正直に言うと」
伊織は小さく首を振った。
「愛しているのかどうかは……まだ、わかりません」
「本当に?」
美和子の声には、疑う色はなかった。
「え……?」
「大切に思っている、というのは」
美和子は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「好き、ということではないの?」
伊織は、少しだけ目を伏せてから、はっきりと答えた。
「……はい。好きです」
「どんなところが、好きなの?」
美和子は、やわらかな声で尋ねた。
「……どんなところ、ですか?」
伊織は少し考え込み、首を振る。
「考えたことも、ありませんでした」
戸惑いながら、正直に続ける。
「……今、美和子さんに聞かれるまで、好きっていう感情が彼に対してあること自体、気づいていなかったんです」
「一つ、はっきりしてよかったわね」
美和子は、にっこりと微笑んだ。
「では」
静かに、もう一歩踏み込む。
「忠相くんの、何が伊織ちゃんに“好き”という感情を持たせたのかしら?」
伊織は視線を泳がせながら、言葉を探した。
「……私のことを、よく見てくれているところ……かもしれません」
「それは、世話好きということ?」
「それも、ある気がします」
伊織は小さく頷いた。
「でも、それだけじゃなくて……」
少し考えて、また首を振る。
「庇護欲がある、っていうこと……? それも当てはまると思うんですけど……」
言葉が続かない。
「なんだか、もっと……」
伊織は両手を膝の上で握りしめた。
「……もっと、こう……」
美和子は急かさず、ただ待つ。
「……うまく言葉にできません」
伊織は困ったように眉を下げた。
「言葉にできない、というのはね」
「感情が曖昧だからじゃないのよ」
伊織は、思わず顔を上げた。
「それは」
美和子は穏やかに続ける。
「伊織ちゃんが、“守られる側”として見られていないから」
「わたしが、“守られる側”として見られていないから?」
伊織が、思わず聞き返した。
美和子は小さく頷き、ゆっくり言葉を選ぶ。
「ええ。忠相くんはね、伊織ちゃんを“か弱い存在”として扱っていないの」
「守っているように見えるでしょう?」
「守っているのよ。でもね、伊織ちゃんが思っている“守り方”とは少し違うと思うわ。
弱いから守っているんじゃない。
伊織ちゃんの強さと弱さは、同じ線の上にあるって、忠相くんはわかっている。
だからこそ、何があっても守りたいの。
きっとね、忠相くんの立場の大きさが、伊織ちゃんを混乱させているのよ」
「強さと弱さは、同じ線の上にある、のですか?」
伊織は、まだ完全には理解できず、戸惑いを隠せないまま問い返した。
美和子は、その混乱を否定せず、ゆっくりと頷く。
「ええ」
そして、静かに言葉を重ねた。
「伊織ちゃん、忠相くんに助けを求めたでしょう?」
伊織は、はっとしたように目を瞬かせる。
「それはね」
美和子は優しく続ける。
「あの時成島にとらわれて、弱い立場にいたからだけできたことじゃないのよ」
少し間を置いて、はっきりと言った。
「他者に助けを求める“弱い自分”を、否定せずに認められること」
「自分は一人では無理だ、と認めること」
「それを恥だと思わず、信頼として差し出せること」
美和子は、ひとつひとつ確かめるように言葉を置いた。
「それって、強さじゃないかしら」
伊織は、息をのむ。
「伊織ちゃんにとって忠相くんは」
美和子は、少しだけ首を傾げて微笑んだ。
「弱いところも、強いところも、どちらもさらけ出せる相手なんだって思うのだけれど……」
一拍置いて、そっと尋ねる。
「それは、私の勘違いかしら?」
伊織の胸の奥で、何かが静かにほどけ始めた。
それは、ずっと“弱さ”だと思っていた。
けれど今、その意味が、ゆっくりと反転していく。
霧が晴れたように、伊織の心はふっと軽くなった気がした。
胸の奥に引っかかっていたものが、いつの間にかほどけている。
伊織はゆっくりと美和子を見つめる。
「美和子さん……今日はお話ししてくださって、ありがとうございます。今のお話、とても腑に落ちました」
「そう?」
美和子はやわらかく微笑む。
「それなら、よかったわ」
その空気を破るように、美咲がくすっと笑って伊織に尋ねた。
「じゃあ伊織、忠相と結婚するって、決めたの?」
「はい」
伊織は迷いなく答えた。
「婚姻届に記入して、彼に渡そうと思います」
「まあ!」
美和子が思わず声を上げる。
「あらやだ。忠相くんも、まさか婚姻届を用意していたわけ?」
伊織は小さく笑った。
「ひょっとしたら……滝沢会長からのアドバイスだったのかもしれませんね」
「……なるほど」
美和子は肩をすくめる。
「従弟といえど、血は争えないのかもしれないわね」
そして、少し楽しそうに続けた。
「だったら伊織ちゃん、もう降参しちゃいなさい」
「え?」
伊織はきょとんとする。
「包囲網は、いたるところに張られているんだから」
「……包囲網、ですか?」
「そう」
美和子はにっこりと笑った。
「溺愛の、ね」
その言葉に、美咲が吹き出し、伊織も思わず笑った。
胸の奥に残っていた最後の曇りが、完全に消えていく。
伊織は、これから始まる未来を、初めて素直に楽しみにしている自分に気づいていた。
立ちのぼる紅茶の湯気が、視界をやわらかく曇らせる。
「……忠相さんの婚約者になって、初めてわかったことがあるんです」
美和子は何も言わず、ただ頷いた。
「忠相さんが、どれほどのものを背負っているのか。
どれほど……すごい人なのか」
言葉を選びながら、伊織は続ける。
「妻になれば、もっと責任が増えていくと思います」
「私は一般家庭の出なので……それを本当の意味で想像することしかできない」
カップの縁を指でなぞりながら、伊織は小さく息を吐いた。
「今だって、忠相さんに守られていることが多いんです」
「それが、責任の重さと比例するみたいに……忠相さんの庇護欲も、きっと強くなる」
声が、わずかに震えた。
「そうしたら私は」
一瞬、言葉に詰まる。
「……ますます、弱くなる気がするんです」
美和子の視線は揺るがず、急かすことも、遮ることもなかった。
美和子は、紅茶を一口含んでから、穏やかに視線を戻した。
「伊織ちゃんは……忠相くんのことを、どう思っているの?」
伊織は少し考えてから、静かに答えた。
「……大切な人です」
「それは」
美和子は声の調子を変えずに続ける。
「“愛している”という意味かしら?」
一瞬、言葉が喉に引っかかった。
「……正直に言うと」
伊織は小さく首を振った。
「愛しているのかどうかは……まだ、わかりません」
「本当に?」
美和子の声には、疑う色はなかった。
「え……?」
「大切に思っている、というのは」
美和子は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「好き、ということではないの?」
伊織は、少しだけ目を伏せてから、はっきりと答えた。
「……はい。好きです」
「どんなところが、好きなの?」
美和子は、やわらかな声で尋ねた。
「……どんなところ、ですか?」
伊織は少し考え込み、首を振る。
「考えたことも、ありませんでした」
戸惑いながら、正直に続ける。
「……今、美和子さんに聞かれるまで、好きっていう感情が彼に対してあること自体、気づいていなかったんです」
「一つ、はっきりしてよかったわね」
美和子は、にっこりと微笑んだ。
「では」
静かに、もう一歩踏み込む。
「忠相くんの、何が伊織ちゃんに“好き”という感情を持たせたのかしら?」
伊織は視線を泳がせながら、言葉を探した。
「……私のことを、よく見てくれているところ……かもしれません」
「それは、世話好きということ?」
「それも、ある気がします」
伊織は小さく頷いた。
「でも、それだけじゃなくて……」
少し考えて、また首を振る。
「庇護欲がある、っていうこと……? それも当てはまると思うんですけど……」
言葉が続かない。
「なんだか、もっと……」
伊織は両手を膝の上で握りしめた。
「……もっと、こう……」
美和子は急かさず、ただ待つ。
「……うまく言葉にできません」
伊織は困ったように眉を下げた。
「言葉にできない、というのはね」
「感情が曖昧だからじゃないのよ」
伊織は、思わず顔を上げた。
「それは」
美和子は穏やかに続ける。
「伊織ちゃんが、“守られる側”として見られていないから」
「わたしが、“守られる側”として見られていないから?」
伊織が、思わず聞き返した。
美和子は小さく頷き、ゆっくり言葉を選ぶ。
「ええ。忠相くんはね、伊織ちゃんを“か弱い存在”として扱っていないの」
「守っているように見えるでしょう?」
「守っているのよ。でもね、伊織ちゃんが思っている“守り方”とは少し違うと思うわ。
弱いから守っているんじゃない。
伊織ちゃんの強さと弱さは、同じ線の上にあるって、忠相くんはわかっている。
だからこそ、何があっても守りたいの。
きっとね、忠相くんの立場の大きさが、伊織ちゃんを混乱させているのよ」
「強さと弱さは、同じ線の上にある、のですか?」
伊織は、まだ完全には理解できず、戸惑いを隠せないまま問い返した。
美和子は、その混乱を否定せず、ゆっくりと頷く。
「ええ」
そして、静かに言葉を重ねた。
「伊織ちゃん、忠相くんに助けを求めたでしょう?」
伊織は、はっとしたように目を瞬かせる。
「それはね」
美和子は優しく続ける。
「あの時成島にとらわれて、弱い立場にいたからだけできたことじゃないのよ」
少し間を置いて、はっきりと言った。
「他者に助けを求める“弱い自分”を、否定せずに認められること」
「自分は一人では無理だ、と認めること」
「それを恥だと思わず、信頼として差し出せること」
美和子は、ひとつひとつ確かめるように言葉を置いた。
「それって、強さじゃないかしら」
伊織は、息をのむ。
「伊織ちゃんにとって忠相くんは」
美和子は、少しだけ首を傾げて微笑んだ。
「弱いところも、強いところも、どちらもさらけ出せる相手なんだって思うのだけれど……」
一拍置いて、そっと尋ねる。
「それは、私の勘違いかしら?」
伊織の胸の奥で、何かが静かにほどけ始めた。
それは、ずっと“弱さ”だと思っていた。
けれど今、その意味が、ゆっくりと反転していく。
霧が晴れたように、伊織の心はふっと軽くなった気がした。
胸の奥に引っかかっていたものが、いつの間にかほどけている。
伊織はゆっくりと美和子を見つめる。
「美和子さん……今日はお話ししてくださって、ありがとうございます。今のお話、とても腑に落ちました」
「そう?」
美和子はやわらかく微笑む。
「それなら、よかったわ」
その空気を破るように、美咲がくすっと笑って伊織に尋ねた。
「じゃあ伊織、忠相と結婚するって、決めたの?」
「はい」
伊織は迷いなく答えた。
「婚姻届に記入して、彼に渡そうと思います」
「まあ!」
美和子が思わず声を上げる。
「あらやだ。忠相くんも、まさか婚姻届を用意していたわけ?」
伊織は小さく笑った。
「ひょっとしたら……滝沢会長からのアドバイスだったのかもしれませんね」
「……なるほど」
美和子は肩をすくめる。
「従弟といえど、血は争えないのかもしれないわね」
そして、少し楽しそうに続けた。
「だったら伊織ちゃん、もう降参しちゃいなさい」
「え?」
伊織はきょとんとする。
「包囲網は、いたるところに張られているんだから」
「……包囲網、ですか?」
「そう」
美和子はにっこりと笑った。
「溺愛の、ね」
その言葉に、美咲が吹き出し、伊織も思わず笑った。
胸の奥に残っていた最後の曇りが、完全に消えていく。
伊織は、これから始まる未来を、初めて素直に楽しみにしている自分に気づいていた。