クズ御曹司の執着愛
忠相がいなくとも、日々は容赦なく過ぎていく。
瞬く間に、という言葉がふさわしいほどに。
毎日電話で話すこともできない。
メッセージすら、忠相からは毎日は来なかった。
時差もあるし、忙しいのはわかっている。
仕方がない——そう自分に言い聞かせながらも、伊織の胸の奥には、日に日に小さな寂しさが溜まっていった。
気がつけば、もう金曜日だ。
今週末は休み。けれど、予定は何もない。
帰り支度をしてオフィスを出ようとした、そのとき。
背後から声がかかった。
「伊織。いま、帰るところ?」
振り返ると、美咲が立っていた。
「美咲先輩。お疲れさまです」
「これから、何か予定ある?」
一瞬考えてから、伊織は首を振る。
「……ないです」
「じゃあ」
美咲は微笑んだ。「美和子さんのところへ、一緒に食事に行かない?」
「滝沢夫人の……?」
思わず聞き返す。
「そう」
美咲は頷いた。
「龍之介さんも忠相も、会長について出張中でしょう。美和子さんが“ぜひ”って、ご自宅に招待してくださったの」
少し間を置いて、付け加える。
「それでね。伊織も一緒にどうか、って」
伊織は胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
「……お誘い、ありがたくお受けします」
「何を持っていけば、夫人に喜んでいただけますか?」
伊織がそう尋ねると、美咲は首を振る。
「彼女のお気に入りのケーキ、もう注文してあるの。だから一度着替えて、それを取りに行きましょう」
「わあ……」
伊織は思わず笑みをこぼした。
「楽しみです」
胸にあった寂しさが、完全に消えたわけではない。
けれどその輪郭は、確かにやわらいでいた。
伊織は、久しぶりに軽くなった足取りで、エレベーターへ向かった。
美咲とともに、伊織は真樹と美和子の自宅へ向かった。
インターホンを押すと、ほどなくして扉が開く。
出迎えたのは、美和子だった。
「いらっしゃい。さあ、上がって」
柔らかな声とともに、穏やかな笑みが向けられる。
伊織は背筋を伸ばし、丁寧にお辞儀をした。
「滝沢夫人。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
美和子は、くすりと微笑んで首を振る。
「そんなふうに呼ばれると、距離を感じちゃうわ」
一歩近づき、伊織の顔をまっすぐ見て言う。
「伊織ちゃん、いらっしゃい。美和子さん、って呼んでね」
その言葉に、伊織の胸がふっと緩んだ。
「……はい。美和子さん」
玄関に満ちたやわらかな空気が、伊織をそっと包み込んでいた。
「そういえば」
美和子がふと思い出したように言った。
「伊織ちゃんには、この部屋のインテリアのことで、滝沢がお世話になったお礼を、きちんと伝えていなかったわね」
一拍置いて、やわらかく続ける。
「もっとも、真樹さんと結婚する前のことだけれど」
美和子は伊織に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「その節はお世話になりました。どうもありがとう」
伊織は慌てて立ち上がり、深く一礼する。
「いえ、とんでもありません。こちらこそ、私に任せていただき、ありがとうございました」
少しだけ間を置いて、仕事の顔に戻る。
「模様替えをなさりたいなど、何かございましたら、いつでもお申しつけください」
「今のところはないわ」
美和子は優雅に微笑んだ。
「でも、そうなったらお願いするわね」
そのやり取りを聞いていた美咲が、キッチンからひょいと顔を出す。
「わあ……美和子さん、すごくおいしそう」
「ふふっ」
美和子は小さく笑った。
「お腹、空いているかしら?」
視線が伊織に向く。
「伊織ちゃん、お酒はどう?」
少し考えてから、伊織は控えめに答えた。
「すみません。あまり強くなくて……ほんの少しだけ、お願いできますか?」
「もちろんよ」
美和子はグラスを用意しながら言った。
「さあ、座って」
促されるまま、伊織はダイニングテーブルに腰を下ろした。
椅子に身を預けた瞬間、この場所に迎え入れられたという実感が、静かに胸に広がっていく。
伊織は、そんな不思議な安らぎを感じていた。
美和子の手料理は、どれも驚くほどおいしかった。
素材の味を生かした優しい味つけで、肩の力が抜けていく。
料理のこと。
美容のこと。
それぞれの趣味のこと。
話題が途切れることなく広がるうち、最初は硬かった伊織の表情も、少しずつほぐれていった。
デザートの頃には、場所をソファへ移す。
テーブルには、伊織たちが手土産に持ってきたケーキと、湯気を立てるティーポットが並べられた。
美和子は、ゆったりとした手つきでポットを傾ける。
琥珀色の液体が、静かな音を立ててカップに注がれていく。
ダージリン。
その一連の所作に、伊織は思わず見とれていた。
美和子はソーサーに乗せたカップを伊織に差し出しながら、何気ない調子で尋ねる。
「伊織ちゃん。忠相くんと、いつ結婚する予定なの?」
胸の奥が、わずかに揺れた。
「……それは」
伊織は一瞬言葉を探し、正直に答えた。
「まだ、決めていないんです」
「あら」
美和子は穏やかな微笑みを崩さない。
「どうして?」
責める響きは、どこにもなかった。
ただ、静かに耳を傾ける人の声だった。
伊織はカップに目を落としながら、ゆっくり息を整える。
ここなら
話してもいいかもしれない。
そんな予感が、胸の奥に芽生え始めていた。
瞬く間に、という言葉がふさわしいほどに。
毎日電話で話すこともできない。
メッセージすら、忠相からは毎日は来なかった。
時差もあるし、忙しいのはわかっている。
仕方がない——そう自分に言い聞かせながらも、伊織の胸の奥には、日に日に小さな寂しさが溜まっていった。
気がつけば、もう金曜日だ。
今週末は休み。けれど、予定は何もない。
帰り支度をしてオフィスを出ようとした、そのとき。
背後から声がかかった。
「伊織。いま、帰るところ?」
振り返ると、美咲が立っていた。
「美咲先輩。お疲れさまです」
「これから、何か予定ある?」
一瞬考えてから、伊織は首を振る。
「……ないです」
「じゃあ」
美咲は微笑んだ。「美和子さんのところへ、一緒に食事に行かない?」
「滝沢夫人の……?」
思わず聞き返す。
「そう」
美咲は頷いた。
「龍之介さんも忠相も、会長について出張中でしょう。美和子さんが“ぜひ”って、ご自宅に招待してくださったの」
少し間を置いて、付け加える。
「それでね。伊織も一緒にどうか、って」
伊織は胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
「……お誘い、ありがたくお受けします」
「何を持っていけば、夫人に喜んでいただけますか?」
伊織がそう尋ねると、美咲は首を振る。
「彼女のお気に入りのケーキ、もう注文してあるの。だから一度着替えて、それを取りに行きましょう」
「わあ……」
伊織は思わず笑みをこぼした。
「楽しみです」
胸にあった寂しさが、完全に消えたわけではない。
けれどその輪郭は、確かにやわらいでいた。
伊織は、久しぶりに軽くなった足取りで、エレベーターへ向かった。
美咲とともに、伊織は真樹と美和子の自宅へ向かった。
インターホンを押すと、ほどなくして扉が開く。
出迎えたのは、美和子だった。
「いらっしゃい。さあ、上がって」
柔らかな声とともに、穏やかな笑みが向けられる。
伊織は背筋を伸ばし、丁寧にお辞儀をした。
「滝沢夫人。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
美和子は、くすりと微笑んで首を振る。
「そんなふうに呼ばれると、距離を感じちゃうわ」
一歩近づき、伊織の顔をまっすぐ見て言う。
「伊織ちゃん、いらっしゃい。美和子さん、って呼んでね」
その言葉に、伊織の胸がふっと緩んだ。
「……はい。美和子さん」
玄関に満ちたやわらかな空気が、伊織をそっと包み込んでいた。
「そういえば」
美和子がふと思い出したように言った。
「伊織ちゃんには、この部屋のインテリアのことで、滝沢がお世話になったお礼を、きちんと伝えていなかったわね」
一拍置いて、やわらかく続ける。
「もっとも、真樹さんと結婚する前のことだけれど」
美和子は伊織に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「その節はお世話になりました。どうもありがとう」
伊織は慌てて立ち上がり、深く一礼する。
「いえ、とんでもありません。こちらこそ、私に任せていただき、ありがとうございました」
少しだけ間を置いて、仕事の顔に戻る。
「模様替えをなさりたいなど、何かございましたら、いつでもお申しつけください」
「今のところはないわ」
美和子は優雅に微笑んだ。
「でも、そうなったらお願いするわね」
そのやり取りを聞いていた美咲が、キッチンからひょいと顔を出す。
「わあ……美和子さん、すごくおいしそう」
「ふふっ」
美和子は小さく笑った。
「お腹、空いているかしら?」
視線が伊織に向く。
「伊織ちゃん、お酒はどう?」
少し考えてから、伊織は控えめに答えた。
「すみません。あまり強くなくて……ほんの少しだけ、お願いできますか?」
「もちろんよ」
美和子はグラスを用意しながら言った。
「さあ、座って」
促されるまま、伊織はダイニングテーブルに腰を下ろした。
椅子に身を預けた瞬間、この場所に迎え入れられたという実感が、静かに胸に広がっていく。
伊織は、そんな不思議な安らぎを感じていた。
美和子の手料理は、どれも驚くほどおいしかった。
素材の味を生かした優しい味つけで、肩の力が抜けていく。
料理のこと。
美容のこと。
それぞれの趣味のこと。
話題が途切れることなく広がるうち、最初は硬かった伊織の表情も、少しずつほぐれていった。
デザートの頃には、場所をソファへ移す。
テーブルには、伊織たちが手土産に持ってきたケーキと、湯気を立てるティーポットが並べられた。
美和子は、ゆったりとした手つきでポットを傾ける。
琥珀色の液体が、静かな音を立ててカップに注がれていく。
ダージリン。
その一連の所作に、伊織は思わず見とれていた。
美和子はソーサーに乗せたカップを伊織に差し出しながら、何気ない調子で尋ねる。
「伊織ちゃん。忠相くんと、いつ結婚する予定なの?」
胸の奥が、わずかに揺れた。
「……それは」
伊織は一瞬言葉を探し、正直に答えた。
「まだ、決めていないんです」
「あら」
美和子は穏やかな微笑みを崩さない。
「どうして?」
責める響きは、どこにもなかった。
ただ、静かに耳を傾ける人の声だった。
伊織はカップに目を落としながら、ゆっくり息を整える。
ここなら
話してもいいかもしれない。
そんな予感が、胸の奥に芽生え始めていた。