クズ御曹司の執着愛

 「私ね」

 雪江は、ふっと遠くを見るような目をした。

 「沢口に嫁ぐ前は、役者だったの」

 伊織は、思わず瞬きをする。

 「結婚を機に引退したけれど……出自は、ごく普通の家庭よ」

 穏やかな声だった。

 「だからね、伊織さんのことを、とやかく言える立場じゃないの。
 それに」

 雪江は、はっきりと言った。

 「あなたには、夫も私も、とても感謝しているのよ」

 「……はい?」

 伊織は思わず聞き返した。
 理解が、まったく追いつかない。

 「忠相の“今”があるのは、あなたのおかげなの」

 伊織は言葉を失ったまま、雪江を見る。

 「日本の大学をやめて、留学したいって、あの子が言い出したときのことよ」

 雪江は、ゆっくりと語り始めた。

 「夫が理由を聞いたの。そうしたらね」

 一拍、間を置いてから、くすっと笑う。

 「『惚れた女がいる』って言うのよ。
 『彼女にふさわしい男になるために、もっと厳しい環境に身を置いて成長したい』って」

 伊織の胸が、どくんと鳴る。

 「夫がね、『どんな女性なんだ?』って聞いたの」

 雪江は、思い出すように目を細めた。

 「そしたら忠相が、真面目な顔で言うの」

 ——
 『彼女は、俺が御曹司っていう立場で、何もしなくても欲しいものが手に入る甘ったれだと思ったらしくて。
 「何も持たない男だ」って、蹴りを入れてきた』
 ——

 そこまで言って、雪江は声を立てて笑った。

 「夫も私も、大笑いよ」

 当時の情景を思い出したのか、雪江はしばらく、くすくすと笑い続けた。

 伊織は、ただ呆然と座っていた。

 本当だったんだ。

 自分が忠相の人生に、そこまで深く関わっていたなんて、思いもしなかった。

 混乱と同時に、胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。

 雪江は笑いを収め、伊織をまっすぐに見た。

 雪江は、ようやく笑いを収め、伊織をまっすぐに見た。

 「それでね。修士課程の途中で一度、日本に戻ってきたことがあったの。そのときに聞いたのよ。どうなの?って」

 少しだけ、声の調子が変わる。

 「そしたら忠相、それはそれは落ち込んでいてね。
 『彼女には、今、恋人がいるんだ』って」

 伊織の胸が、きゅっと縮む。

 「その後、向こうの会社に就職して、しばらくしてから真樹君に呼び戻されて……
 そして、今なのよね」

 雪江は肩をすくめる。

 「お見合いの話も、それなりにいただいていたのよ。
 でも、全部お断り」

 一拍置いてから、楽しそうに言う。

 「『俺は、彼女と結婚するか、一生独身かしかない!』ですって」

 言い切りの真似が可笑しかったのか、雪江は再び声を立てて笑った。

 「いい年した男がね。
 本当に、子供みたいで……面白くて」

 笑いすぎたのか、目尻に涙が滲む。

 伊織は、その様子を呆然と見つめていた。

 そんなふうに、思われていたなんて。

 雪江の軽やかな調子に、張り詰めていた伊織の全身から、すっと力が抜けていく。

 「伊織さん」

 雪江は、笑みを消し、穏やかながらも真剣な眼差しで問いかけた。

 「忠相は…あなたにとって、信頼できる男性かしら?」

 その問いに、伊織の中には、もう迷いはなかった。

 伊織は顔を上げ、まっすぐに雪江の目を見つめる。

 「はい」

 声は低く、揺れていない。

 「私は、忠相さんを信頼しています」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で、何かが静かに定まった。

 伊織は、心の中でそっと誓う。

 すべてを、彼に委ねよう。

 雪江は、はっきりとした声で言った。

 「安心して、うちへいらっしゃい」

 その言葉には、迷いがなかった。

 「忠相の妻としての役割は、私が教えます。
 美和子ちゃんもね、いつでも力になってくれるわよ」

 そして、優しく微笑む。

 「あなたなら、大丈夫」

 そう言って、雪江は静かに立ち上がった。

 テーブルの上に置かれていた婚姻届を手に取り、伊織の方を見る。

 「ここ、証人欄が空いているわね」

 紙面を確かめながら、穏やかに尋ねる。

 「私が、署名してもいいかしら?」

 「……もちろんです!」

 思わず声が弾む。

 「ありがとうございます」

 伊織は、こみ上げる嬉しさに身体が小さく震えるのを感じながら、深く頭を下げた。

 雪江がペンを取る、その姿を見つめながら、
 伊織は静かに胸の奥で息を整えた。

 ここから先は、
 忠相と共に歩く人生。

 もう、戻る場所は一つしかなかった。

 「……随分、長居してしまったわね」

 雪江がそう言って、ゆっくりと立ち上がった。

 「いいえ。本来はこちらからご挨拶に伺うべきところを……来てくださって、ありがとうございます」

 伊織が頭を下げると、雪江はふっと微笑んだ。

 「伊織さん」

 「はい?」

 「あの部屋は、もう見た?」

 「……あの部屋、ですか?」

 「書斎の隣の部屋よ」

 伊織は一瞬、言葉を探した。

 「いいえ……忠相さんに、
 『あそこには入らないでくれ』と言われていますので」

 雪江は、それを聞いても驚いた様子を見せなかった。

 「そう」

 そして、ごく自然に言う。

 「じゃあ、私と一緒にいらっしゃい」

 雪江はそのまま廊下を進み、書斎の隣の扉の前に立つ。
 伊織は、一拍遅れてその後をついていった。

 ドアが開く。

 雪江は迷いなく中へ入り、窓辺に歩み寄ると、カーテンに手をかけた。

 しゃっと、軽い音を立てて、布が開かれる。

 差し込んだ光に照らされ、
 そこに置かれていたものを目にした瞬間。

 伊織は、思わず息を呑んだ。

 部屋の中は、思っていた以上に整然としていた。

 ふっと、絵の具のにおいが鼻をかすめる。

 伊織は、壁に掛けられた写真に目を留めて、息を呑んだ。

 あれは。

 サークルの合宿で撮られた一枚。
 そして、コンテストで「越前コンビ」と呼ばれていた、忠相と伊織の優勝記念の写真。

 さらに視線を巡らせる。

 窓際に置かれた写真。
 焚火の前に並んで座る二人の後ろ姿。誰が撮ったのか、伊織には見当もつかない。

 そして、部屋の奥。

 イーゼルに掛けられたキャンバス。

 そこには、伊織の姿が描かれていた。

 窓辺の棚には、伊織に関する掲載記事の切り抜きが、丁寧に並べられている。

 「……あの子の趣味らしいわ」

 雪江が、穏やかに微笑んで言った。


 「母親の私が言うのも変だけれど」

 一拍置いて、静かに続けた。

 「あなたと忠相は、運命なんだと思うの」


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