クズ御曹司の執着愛
 雪江と光子をマンションのエントランスまで見送り、伊織はそのまま放心したように部屋へ戻った。

 足が、自然と向かったのは忠相のアトリエだった。

 去り際、雪江は振り返って、どこか楽しげに言った。

 「もし忠相に、無断で入ったことを怒られたらね。
 私の命令だったって言いなさい」

 そして、念を押すように続ける。

 「今度は、二人そろってうちへいらっしゃい。
 夫もね、とても楽しみに待っているわ」

 扉が閉まったあとも、その声だけが耳に残っていた。

 伊織は、アトリエの床にそのまま座り込む。

 あの時の会話は、本当だったんだ。

 胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。

 伊織は、忠相のマンションへ引っ越してきた日のことを思い出していた。

    「なに? あの部屋に、愛しい人の思い出でもあるわけ?」

     短い沈黙。

     その間が、なぜか妙に重く感じられたあの時。

     忠相は視線を伏せ、少し間を置いてから答えた。

     「……まあ、そんなところだ」


 当時は、それ以上踏み込まなかった。

 けれど今なら、わかる。

 あの一瞬のためらいも、
 伏せられた視線も、
 曖昧に濁された言葉も。



 今日一日の出来事を、頭が追い切れていなかった。

 忠相の家族に迎え入れられた。
 否定ではなく、承認として。
 試練ではなく、祝福として。

 確かに、そこには幸福があった。

 それなのに。

 胸の奥に、ひとひらの寂しさが落ちてくる。

 理由は、わかっている。

 この時間を、忠相と分かち合えていないからだ。

 彼の人生の深い場所を、
 今日、自分は一人で見てしまった。

 伊織は膝を抱える。

 幸福の輪郭は、こんなにもはっきりしているのに、
 心は、どこか置き去りにされたようだった。

 早く、忠相に会いたい。

 その想いが胸に浮かんだ瞬間、
 伊織はようやく、自分が忠相を愛しているのだと知った。

 カーテンを閉め、そっとアトリエを出る。

 迷いは、もうなかった。

 ダイニングテーブルの上に置かれた婚姻届に向かい、
 伊織は静かにペンを取る。

 そして、ためらうことなく自分の名を記入した。
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