氷の御曹司と忘れられた誓い
第五章 距離の拡大
冬の朝は、屋敷全体を透き通るような冷たさで包み込んでいた。
リビングのカーテン越しに差し込む光は白く、花蓮はソファに座ったまま、手の中のマグカップをただ見つめていた。
カップの中の紅茶はとっくに冷めて、表面に薄い膜を張っている。
(昨夜から、一言もまともに話していない……)
書斎での言い合いが、頭の中で何度も再生される。
隼人の冷たい視線、短く切られた言葉、そして机の上で見つけたあのメモ。
何を問いただしても、壁のような答えしか返ってこなかった。
「……おはようございます」
勇気を出して声をかけた朝食の席で、隼人は新聞から顔を上げずに短く返した。
「ああ」
それきり、皿とカトラリーの音だけが食卓を支配する。
スクランブルエッグの湯気が消えていく間にも、会話は生まれない。
花蓮はフォークを置き、口を開きかけてやめた。
(何を言っても、届かない気がする……)
食事を終えると、隼人はコートを羽織りながら言った。
「今日は遅くなる」
「……そうですか」
彼は一度だけ視線を向けたが、何も言わず玄関を出て行った。
重い扉の閉まる音が、やけに大きく響く。
午後、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、氷室真希が立っていた。
深いグレーのコートに身を包み、手には薄い封筒を持っている。
「奥様、社長からお預かりした書類です」
「ありがとうございます……わざわざ」
花蓮が受け取ると、氷室は少し視線を落として言った。
「奥様……社長はあなたを大切にされています」
突然の言葉に、花蓮は目を瞬かせる。
「……そうは見えません」
「見えないようにしているのかもしれません」
「なぜ、そんなことを?」
「あなたが社長の“弱点”だからです」
再び聞かされたその言葉。
「弱点、ですか」
「ええ。守るべき存在。……だからこそ、時に距離を置く。それが社長のやり方です」
氷室は一歩下がり、軽く頭を下げる。
「お二人のことに口を挟むつもりはありません。ただ……奥様が傷つくのを見たくないだけです」
そう言って去って行く彼女の後ろ姿は、相変わらず感情を見せなかった。
夜、花蓮はベッドの上で考えていた。
このままでは、ただ同じ家に住んでいるだけの関係になってしまう。
互いに何も言わず、距離は広がるばかりだ。
翌朝、花蓮はスマートフォンを手に取り、兄・拓真に電話をかけた。
「……少しの間、家に戻ってもいい?」
『どうした』
「疲れたの。……少し休みたいだけ」
兄は短く息を吐き、『わかった。迎えを出す』と言った。
キャリーバッグに最低限の荷物を詰め、玄関に下りると、そこには出勤前の隼人が立っていた。
「どこへ行く」
「……実家に。少しだけ」
「理由は」
「休みたいだけです」
隼人はしばらく無言で花蓮を見つめ、それから視線を逸らす。
「送る」
「自分で行けます」
「送ると言っている」
反論の余地を与えない口調だった。
黒塗りの車内は暖房が効いているのに、花蓮の指先は冷たかった。
窓の外に流れる街並みを見つめながら、言葉を探す。
けれど、何も出てこない。
沈黙の中、信号で車が止まる。
隼人がぽつりと呟いた。
「……長くはいないでくれ」
それは命令というより、どこか懇願にも似ていた。
花蓮は返事をしなかった。
実家に着くと、拓真が玄関で迎えてくれた。
「……顔色が悪いな」
「そう?」
「お前、昔から抱え込む癖がある。無理をするな」
花蓮は小さく笑った。
「ありがとう。少しここで休むわ」
兄はうなずき、「何かあったら必ず連絡しろ」とだけ告げた。
その夜、ベッドサイドのスマートフォンが震えた。
画面に映る「神崎隼人」の名前。
「……もしもし」
『無事か』
「ええ」
数秒の沈黙。
『……明日の夜、戻ってこい』
「どうして」
『会って話す』
理由を告げず、通話は切れた。
花蓮は天井を見つめ、深く息を吐いた。
(何を話すつもりなの……)
冬の夜は長く、静かに更けていった。