三年目の別離、そして――

第五章「距離の拡大」

 エレベーターを降りた瞬間、胸の奥に残っていた熱が、すっと冷えていくのを感じた。
 司のあの言葉――「嫉妬している」。
 その響きは確かに心を揺らしたのに、廊下で見た美香の笑みが、全てを曇らせてしまう。

 マンションに戻っても、考えるのはその場面ばかりだった。
 ソファに沈み、天井を見上げる。
 司の本音を信じたい気持ちと、美香の影を疑う気持ちが、交互に波のように押し寄せる。

 

 それから一週間、司からの連絡はなかった。
 代わりに耳に入ってきたのは、業界内の噂ばかり。

「篠宮社長、このところ美香さんと海外出張が多いらしいわよ」
 葵が持ってきた雑誌のページには、空港で並んで歩く二人の写真が載っていた。
 記事には「新たなパートナーか」と書かれている。

「仕事でしょ」
 自分に言い聞かせるように口にしても、心の奥底では別の声が囁く。
 本当に仕事だけ? あの距離感は――。

 葵がワイングラスを差し出し、私の視線を覗き込む。
「ねぇ、まだ彼を好きなんでしょう」
「……わからない」
「わからない顔じゃないわよ」

 

 数日後、神谷からメッセージが届いた。
『来週、パーティーに招待したい。業界の顔ぶれが集まるから、いい刺激になるはず』

 断るつもりだった。けれど、司と会わない日々の空虚さが、指を「OK」に動かしていた。

 

 ホテルの宴会場は、光の海のようだった。
 シャンデリアの下で、神谷は私にシャンパンを渡す。
「今日は、いい顔してる」
「……そう?」
「ええ。少なくとも、あの社長と会った日の顔よりは」

 冗談めかしているのに、胸の奥にちくりと刺さる。
 私は笑い返し、グラスを口に運んだ。

 その瞬間、背後から視線を感じた。
 振り返ると――司がいた。
 黒のスーツにネクタイ、無表情の奥に張り詰めた何かを秘めている。
 隣には、美香。淡い水色のドレスが、彼女の白い肌を際立たせていた。

 司と目が合う。
 けれど、彼は何も言わず、視線を逸らして別の人々と談笑を始めた。
 まるで私など、最初からこの場に存在しないかのように。

 胸の奥で何かが軋む音がした。
 私はグラスを置き、神谷に「少し外に出る」と告げて会場を出た。

 

 テラスに出ると、夜風が頬を撫でた。
 街の灯りが遠くに滲んで見える。
 背後のドアが開く音がして、振り向けば司が立っていた。

「……久しぶりだな」
「ええ。ずいぶんお忙しそうで」
「仕事だ」
「知ってる。美香さんと一緒に、ね」

 その言葉に、司の眉がわずかに動く。
「君には関係ない」
「そうね。もう関係ないもの」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。
 司は一歩近づき、低く言った。
「そうやって自分を守っているつもりか」
「守る必要があるのよ。だって、あなたは何も――」

 言葉を飲み込む前に、ドアの向こうから美香の声が聞こえた。
「社長、こちらにいらしたんですね」

 司は私から視線を外し、美香の方へ振り向く。
 その瞬間、胸の奥の何かが完全に折れた気がした。

 

 その夜、部屋に戻っても眠れなかった。
 窓の外に広がる夜景は美しいはずなのに、何も感じない。
 手にしたスマホの画面には、神谷からのメッセージが光っていた。

『大丈夫? もし話したいなら、今からでも行く』

 私は長い間、送信ボタンに指をかけたまま、動けずにいた。
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