「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —

序章「硝子越しの出会い」

 四月の朝の空気は、まだ冬の名残を抱えて冷たい。
 東京駅から続くオフィス街は、通勤ラッシュの人波に押し流されるように、真新しいスーツ姿の新入社員たちが小走りに歩いていた。

 春川美咲も、その中のひとりだった。
 入社式を終えたばかりの新卒で、今日はいよいよ配属先の部署に初めて顔を出す日。
 緊張で心臓が痛いほど鼓動を打ち、手にした資料の端は湿って指紋が残っている。

(遅刻だけは絶対にできない…!)

 高層ビルの自動ドアをくぐった瞬間、ビル全体の空気が一段階ひんやりと変わった。
 天井の高いロビーには、ビジネスシューズの硬い音と、低く落ち着いた声が飛び交っている。
 その緊張感に飲まれそうになりながらも、美咲は研修担当から聞いたフロアへと向かおうと、エレベーターに急ぎ足で歩みを進めた。

 その時——。

 角を曲がった瞬間、勢いよく誰かと肩がぶつかった。
 手にしていた資料がふわりと宙に舞い、床にぱらぱらと散らばる。

「っ…す、すみません!」

 慌てて頭を下げた美咲の前に、黒のスーツをきりりと着こなした長身の男性が立っていた。
 シャープな顎のラインと、冷静な黒い瞳。整いすぎた顔立ちに、一瞬言葉を失う。
 彼は落ちた資料に一瞥をくれると、短く息を吐いた。

「気をつけろ」

 それだけを低い声で告げ、脇をすり抜けていく。
 有無を言わせぬ圧と、冷ややかさ。謝罪の言葉すら、喉で凍りつくようだった。

(……怖い人だな)

 背筋を冷や汗が伝い、資料をかき集めながら、美咲はそっと彼の背中を見送った。
 広い肩、無駄のない歩幅。視線を向けられただけで、胸の奥を射抜かれたような感覚が残っている。

 なんとか部署のフロアにたどり着き、自己紹介や簡単な説明を受けた後、美咲はデスクに腰を下ろした。
 机上に置いた資料を整えようと手を伸ばすと、そこに見慣れない光景があった。

 ——先ほどぶつかって散らばったはずの資料が、端を揃えてきちんと置かれている。
 しかも、ページごとにずれがないよう丁寧に整えられていた。

(……もしかして、あの人が?)

 答えはない。ただ、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなる。
 冷たく見えても、本当は違うのかもしれない——そんな予感が、美咲の心のどこかに小さな灯をともした。

 その予感が、やがて彼女の人生を大きく揺らすことになるとは、この時の美咲はまだ知らなかった。
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