「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —

第1章「冷たい指導と優しい横顔」

 配属初日。
 春川美咲は、部署の長い廊下の先に見えるガラス扉を前に、思わず足を止めた。
 磨き上げられたガラスには、自分の緊張した顔が映っている。頬はわずかにこわばり、唇は乾いていた。

(大丈夫、大丈夫……笑顔を忘れない)

 心の中で何度も唱え、そっと扉を開ける。
 フロアにはデスクが整然と並び、コピー機の作動音とキーボードを叩く音が規則正しく響いていた。
 空調の効いた涼しい空気に、コーヒーの香りがわずかに混ざる。

「こちらが新しく入る春川さんです」

 研修担当の先輩が声を掛けると、何人かが手を止め、美咲に視線を向ける。
 笑顔を返すが、心臓は早鐘のように打ち続けていた。

「課長、こちら春川さんです」

 そう紹介されて顔を上げた瞬間、美咲の呼吸が浅くなった。
 先ほど廊下で肩がぶつかった、あの冷たい瞳の男性——神崎亮がそこにいた。

「……春川です。本日からお世話になります」

 深く頭を下げると、神崎はほんの一瞬視線を合わせ、頷くだけだった。

「まずは資料整理からやってもらう。今日の分はメールで送ったから、確認しておけ」

 低く落ち着いた声。命令のような響きに、美咲は反射的に背筋を伸ばす。

「は、はい」

 表情からは感情を読み取れない。
 冷淡とも、ただの事務的態度とも取れるその距離感が、美咲の胸をざわつかせた。

 

 午前中、美咲は指示通り資料の整理に取り掛かった。
 新卒向けの簡単な作業かと思っていたが、部署特有の略語や取引先の社名が次々に出てきて、何度もパソコンで検索する羽目になる。
 焦れば焦るほど、手元が空回りした。

「……春川、ここ、数値が違ってる」

 後ろから静かな声が落ちる。振り返ると、神崎が資料を手に立っていた。
 整った顔に影を落とし、鋭い視線が間近にある。

「す、すみません……すぐ直します」

「数字一つで契約内容が変わることもある。確認は三度やれ」

 叱責というより、冷静な指導。
 けれど、その無表情な言い方が胸に突き刺さる。
 うなだれて修正に取りかかる美咲の横で、神崎は少しだけ声を和らげた。

「……分からないところは聞け。黙って間違えるのが一番困る」

 視線を上げる前に、彼はすでにデスクへ戻っていった。
 背中に残る低い声の余韻が、なぜか心に引っかかる。

 

 昼休み。
 同じ新人の佐伯が美咲の席に来て、「一緒に行こう」と声をかけてくれた。
 二人で社食へ向かう途中、佐伯が小声で笑う。

「神崎課長、やっぱり怖い?」

「……うん、ちょっとだけ。でも、意外と優しいところもあるのかも」

「え、優しい? あの人が?」

 半信半疑の表情に、美咲は肩をすくめた。

「午前中、ちゃんと教えてくれたし……」

「ふーん、俺にはただの氷の人にしか見えないけどな」

 そんなやり取りの最中、通路の向こうから神崎が現れた。
 彼は誰かと電話をしており、その横顔は昼の光を受けて際立つ。
 無駄のない仕草、低く抑えた声。その姿に、思わず足が止まった。

(……やっぱり、すごい人だ)

 気付かれないように視線を逸らしながら、美咲は胸の奥に小さな熱を抱えたまま、社食のざわめきの中へ消えていった。
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