「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —
第6章「真実の断片」
——距離は、思ったよりも簡単に広がる。
会話を減らし、視線を避け、必要最低限のやり取りだけを重ねれば、あっという間に心の間に冷たい空気が入り込む。
それが安全だと頭では分かっていても、美咲の胸は日に日に重くなっていた。
そんな中、週末に向けて重要案件の準備が進められていた。
クライアントへの最終提案を来週に控え、各チームの資料が集まり始める。
美咲は調整役として各部署からのファイルを取りまとめ、神崎へ提出する役目を任されていた。
(……ちゃんとやらなきゃ。今は仕事に集中しよう)
自分に言い聞かせるように、ひとつひとつのファイルをチェックしていく。
夕方。
コピー室で資料をまとめていると、背後から声がした。
「春川さん、それ、神崎課長に渡すやつ?」
振り向くと、宮園が立っていた。
端正な顔に穏やかな笑みを浮かべ、手には自分の担当分の資料を持っている。
「はい。今、全部揃えているところです」
「助かります。……課長、この案件、かなり力入れてますから」
「……そうなんですか?」
「ええ。クライアントの担当者が以前、大きなトラブルに巻き込まれて取引停止寸前までいったことがあるんです。
課長、そのとき全責任を負って、半年かけて信頼を回復したんですよ」
思わず息を呑む。
あの冷静で厳しい神崎が、そんな過去を——。
「だから今回も絶対に成功させたいはずです。……春川さんも、きっと力になれると思いますよ」
宮園はにこやかにそう言い、資料を手渡して去っていった。
残された美咲は、コピー機の低い駆動音を聞きながら、胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。
(……知らなかった。そんなこと)
神崎の厳しさの裏に、そういう経験があったのかもしれない。
そう思うと、これまでの叱責や指導の言葉が少しだけ違う意味を帯びて感じられた。
その日の退勤間際。
提出用の資料を抱えて神崎のデスクへ向かうと、彼は電話中だった。
英語で短く指示を出しながらも、美咲に気づくと、手で「そこに置け」と合図をする。
資料を置こうとしたとき——デスクの端に置かれた封筒が目に入った。
差出人欄には、先ほど宮園が話していたクライアントの会社名が記されている。
封筒の角は何度も開閉されたように柔らかくなっており、細かいメモが貼られていた。
(……ずっと準備してきたんだ)
神崎が電話を終えると、視線を上げた。
「何だ」
「あ……資料です。全部そろってます」
「……ご苦労」
短いやり取り。
けれど、その声色はいつもよりわずかに柔らかく感じられた。
美咲は「お疲れさまです」とだけ告げてデスクを離れた。
背中に、言葉にならない想いが静かに積もっていく。
夜。
帰宅途中の電車の窓に映る自分の顔は、数日前よりも少しだけ穏やかだった。
完全に誤解が解けたわけではない。
けれど、確かに神崎の中に、自分の知らない一面があることを知った。
(……もう少し、ちゃんと話したい)
その思いが、心の奥に静かに沈んでいった。