「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —

第8章「誤解の終わり」

 ——クライアント提案当日。
 会議室には大きなスクリーンと、整然と並んだ資料が準備されていた。
 美咲は席に着きながら、指先に力が入るのを感じていた。

(今日が終われば、少しは……)

 神崎は冒頭の挨拶を終え、淡々とプレゼンを進めていく。
 美咲は資料の補足や質疑応答の補助に回り、何度か神崎と目が合った。
 その視線は冷静で、しかしどこか安心感を含んでいた。

 提案は順調に進み、クライアントからの反応も良好だった。
 会議室を出た瞬間、神崎が小さく頷く。

「……よくやった」

 それだけで胸が熱くなる。
 けれど、廊下の先で宮園が待っていた。

「課長、お疲れさまです。……これ、例の件です」
「ありがとう。後で確認する」

 淡々としたやり取り。
 それなのに、美咲の心はざわついた。
 思わず背を向け、資料室に足を向ける。

 

 資料室の奥。
 積まれたファイルを片付けていると、背後から足音が近づく。

「……避けてるな」

 低い声に振り返ると、神崎が立っていた。
 真っ直ぐな視線に射抜かれ、言葉が詰まる。

「……避けてなんか——」
「俺には分かる。……宮園のことか」

 図星を突かれ、息が詰まった。
 神崎は一歩近づく。

「宮園は昔、俺が信頼を失いかけたとき、同じチームで助けてくれた。……それだけだ」

「それだけ……?」

「今も感謝はしている。だが、それ以上の感情はない」

 胸の奥が揺れる。
 神崎の瞳は真剣で、嘘を探しても見つからない。

「俺が——特別に思っているのは、お前だけだ」

 静かな言葉が、真っ直ぐに届く。
 心の奥に絡みついていた棘が、少しずつほどけていくのを感じた。

「……どうして、私なんですか」

「理由を求めるのは苦手だ。……気づいたら目で追っていた。笑うときも、悔しそうな顔をするときも、全部覚えている」

 頬が熱くなり、視線を逸らす。
 けれど、神崎はその顎をそっと指で持ち上げた。

「もう、誤解は終わりにしよう」

 その言葉に、涙が滲む。
 美咲は小さく頷き、深く息を吸った。

「……はい」

 ふっと神崎の口元が緩む。
 その笑みは、初めて見る穏やかなもので、胸の奥が温かく満たされていく。

 

 夜。
 帰り道、二人は同じビルのエントランスで足を止めた。
 外は春の終わりを告げる雨が静かに降っている。

「傘は——」
「今日は、持ってます」

 美咲の言葉に、神崎は小さく笑った。
 並んで歩き出すその距離は、もう数日前のような冷たいものではなかった。

(……やっと、隣に立てた気がする)

 街灯に照らされた雨粒が、柔らかく夜に溶けていった。
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