「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —
 翌朝——。
 まだ少し重たい頭を抱えながら出社すると、オフィスの空気が妙にざわついていた。
 コピー機の前で立ち話をしていた女性社員二人が、美咲を見るなり小声になり、目を合わせては口元を覆う。

(……何?)

 席に着くと、隣の佐伯がやや気まずそうに身を寄せた。

「なぁ……昨日の帰り、神崎課長と一緒だったろ?」

「えっ……なんでそれを」

「見てた人がいるんだよ。ほら、会場の外で二人で出てくの。しかもタクシーで帰ったって」

 心臓が嫌な音を立てた。

「そ、それは……私が飲みすぎちゃって……送ってくれただけで——」

「分かってるよ。俺はな。でも、人の口に戸は立てられないってやつでさ」

 その言葉通り、昼休みにはもう社内の数人が「課長、春川さん贔屓してるらしいよ」と噂していた。
 相手の笑い声のトーンや視線に、わずかな悪意が混ざっているのが分かる。

(こんなの……困る)

 午後の会議。
 進行役の神崎は、淡々と議事を進めていたが、突然美咲の名前を呼んだ。

「春川、先日の資料、競合比較の追加分を今ここで説明してくれ」

 視線が一斉に集まる。
 胸の奥で不安と緊張が渦を巻くが、声を整えて発表を終えた。
 すると神崎は、ごく短く——しかしはっきりと口にした。

「よくやった。資料の精度は全体の中でも高い」

 静かな一言が、会議室に落ちた。
 褒められたはずなのに、周囲の一部がざわつく。

「やっぱり特別扱いじゃない?」
「課長が褒めるなんて珍しいよね」

 囁きが耳に残る。
 美咲は唇を噛み、視線を落とした。

 

 会議後、廊下で神崎に呼び止められた。

「……何か言いたそうだな」

「課長、昨日のこと……変に思われてます」

「変、とは?」

「……贔屓してる、とか」

 神崎は数秒、黙って美咲を見つめた。
 その瞳は冷たくも熱くもない、ただ真っ直ぐな視線だった。

「俺が何を言おうと、そう受け取る人間はいる。気にする必要はない」

「でも——」

「お前は昨日、送らなければ帰れない状態だった。それだけだ」

 言い切る声に揺るぎはない。
 だけど、美咲の胸の中では別の感情がざわめいていた。

(私だけじゃない。……宮園さんのことも、きっとこうやって庇うんだ)

 そんな思いが頭をよぎり、心に小さな影を落とす。

 

 夕方、デスクで書類をまとめていると、背後で宮園と別の社員が話しているのが聞こえた。

「昨日、課長と春川さん、一緒に帰ったらしいじゃない」
「そうみたいですね。……まぁ、課長は誰にでも優しいですから」

 その声色には棘がなかった。
 それが逆に、美咲の胸を締め付けた。

 (……誰にでも、優しい)

 そう思った瞬間、前日のタクシーでの横顔がよみがえる。
 優しさは本物だった。けれど、それは自分だけのものではない——そう思い知る。

 窓の外では、雨上がりの空が夕陽に染まり、街の輪郭を赤く照らしていた。
 その光の中で、美咲は自分の心が少しずつ拗れていくのを感じていた。
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