「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —

第4章「初めての衝突」

 ——週明けの月曜。
 朝から部署全体が慌ただしかった。
 大型クライアントとの契約更改に向けた最終提案会議が、この日の午後に控えていたのだ。

「春川、午前中に競合比較の最新データをまとめておけ」
「はい」

 神崎の指示通り、美咲は市場調査チームからの数字をまとめ、グラフ化していく。
 しかし、前回までのデータと差異が大きく、理由を確認するため調査チームに問い合わせた。

「——春川さん、それは使わないで」
「え?」
「上からの方針で、比較対象は先月のデータで固定することになったの」

 驚きつつも頷き、指示通り先月分で資料を完成させる。

 

 午後の会議室。
 大きなテーブルを囲み、数名の管理職と営業チームが集まる。
 神崎が進行役を務め、クライアント側の担当者もリモートで接続されていた。

「次に、競合比較の資料を」
「はい」

 美咲は立ち上がり、スクリーンに映し出されたグラフを指し示す。
 淡々と説明を続けるが、その途中で神崎が眉をひそめた。

「——これは先月のデータだな」

「はい。調査チームから、先月分で固定するよう——」

「誰がそんな指示を出した」

「え……営業本部長の——」

「最新データを無視してどうする。クライアントに対する説得力が落ちる」

 低く鋭い声が、会議室の空気を一瞬で張り詰めさせた。
 美咲は必死に言葉を探す。

「で、でも……本部長の判断なら——」

「判断が誤っているなら修正を進言するのが担当の役目だ」

 冷たい瞳が正面から突き刺さる。
 視線を逸らしたくても逸らせない。
 胸の奥で、怒りとも悔しさともつかない熱が込み上げた。

「……課長は、私が何も考えずに従ったと思ってるんですか」

 会議室の空気がわずかに揺れた。
 神崎の表情は変わらないが、その瞳がほんの一瞬だけ鋭さを増す。

「結果として、そうなっている」

「……っ!」

 何かを言い返そうとしても、言葉が喉でつかえる。
 神崎は淡々と会議を進行し、話題は別の議題へと移った。

 

 会議後。
 片付けのため資料を回収していると、神崎の声が背後から落ちた。

「——少し来い」

 無言でついていくと、人のいない小会議室に入った。
 ドアが閉まる音が、妙に大きく響く。

「さっきの件だが」
「……私だって、課長に恥をかかせたいわけじゃありません」

「そうか」

「でも、上の指示を無視するのは……私の立場では難しいです」

「難しいなら——どうすれば実現できるかを考えろ。それが成長だ」

 真っ直ぐに突きつけられた言葉に、美咲は息を飲む。
 悔しさで目頭が熱くなるのを、必死にこらえた。

「……分かりました」

 短くそう返すと、神崎はわずかに視線を和らげた。

「お前の資料作成能力は悪くない。だからこそ、中身で妥協するな」

「……はい」

 その声色が、先ほどの冷たさとは違うことに気づく。
 でも、胸のざわめきは消えなかった。
 ——なぜ自分だけ、こんなにも感情を揺さぶられるのか。
 その答えは、まだ分からない。
< 9 / 15 >

この作品をシェア

pagetop