「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —
 ——週末を前にした金曜の夕方。
 業務を終えた美咲は、帰宅前にメールを確認していた。
 そこへ、佐伯が軽い足取りでやってくる。

「春川さん、このあとちょっとだけお茶しない? 近くのカフェ、新作ケーキ出てるらしいよ」

「あ、でも……」

「いいじゃん。仕事も片付いたし」

 返事を迷った、そのとき——。

「春川」

 低く鋭い声が背後から落ちた。
 振り返ると、神崎がスーツ姿のまま立っていた。
 その瞳には、昼間よりも濃い色が宿っている。

「少し来い」

「え、でも——」

「来い」

 有無を言わせぬ声。
 佐伯が「じゃ、また今度な」と軽く笑って去っていくのを背に、美咲は神崎に腕を取られ、半歩強引に廊下へ引き出された。

 

 人影の少ない打ち合わせスペース。
 神崎は美咲を壁際まで追い込み、低く問いかけた。

「……あいつと何の話をしていた」

「え?」

「さっきの佐伯だ。カフェに行くつもりだったな」

「ち、違います。ただ誘われただけで——」

「断れなかったのか」

「そうじゃなくて……」

 胸が早鐘のように打ち、視線を逸らす。
 けれど、その瞬間、顎を指先で軽く持ち上げられた。

「俺の前で、他の男と笑うな」

 耳の奥まで熱が上がる。
 何を言えばいいのか分からず、口がわずかに開いたまま声が出ない。
 神崎は数秒、美咲を見つめ、それからふっと手を離した。

「……研修の準備がある。帰れ」

 背を向けて去っていくその広い背中に、言いようのないざわめきが残った。

 

 翌日。
 社外研修の会場近くのカフェで、美咲は偶然、神崎と宮園が並んで歩く姿を見かけた。
 二人は研修の資料を手にしており、穏やかな笑顔を交わしている。
 距離は近く、まるで息がぴったり合っているように見えた。

(……やっぱり)

 昨日の言葉が、頭の中で反響する。
 「俺の前で、他の男と笑うな」——あれは自分だけに向けられたものではないのかもしれない。
 ただの上司としての独占欲。
 もしくは、彼にとっての「特別」は別の誰かなのだ。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かがきしむ音がした。
 嫉妬と不安が絡み合い、ほどける気配はない。
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