失恋するまでの10日間〜妹姫が恋したのは、姉姫に剣を捧げた騎士でした〜
カーク4
「ルヴァインの宝石、エステル王女殿下のお越しを心より感謝申し上げます。英雄殿も、このような荒れ果てた土地に戻ってきてくださり、歓喜に堪えません」
齢七十を超える彼は、魔獣暴走の戦いで一人息子を亡くしていた。息子には妻がいたが、二人の間に子はなく、いずれ他家から養子を迎える手筈を整えるはずだったと言う。だが魔獣暴走以前ならともかく、ここまで荒れ果てた領地を引き受けてくれる者も、また安心して任せられる者も見つけることができなかった。夫を亡くし体調を崩した息子の嫁は他領にある実家で静養中で、おそらく戻ってくることはないだろうと、事前に知らされていた。
「ですのでカーク様とエステル様が名乗りを上げてくださったと聞いて、神に感謝したほどです」
「名乗りを上げた、ですか? 待ってください、伯爵の方から依頼されたのでは……」
カークがそう質問を挟もうとしたが、老伯爵は感極まったように目を潤ませ、唇を震わせていた。
「王家は我が領地を見捨てたりなどされなかった……! 英雄殿と王女殿下を遣わせてくださったことがその証拠でしょう。国王両陛下と王太女殿下にも心から感謝申し上げます」
そのままとうとう泣き崩れてしまった伯爵は、感激が過ぎて朦朧としてしまい、執事にベッドへと運ばれていった。
とんだ挨拶となってしまったが、それよりもカークが優先しなければならないことがあった。
「エステル、大丈夫か? 疲れただろう。メイドたちに湯浴みの準備をさせるから、今日はゆっくり休むといい」
「カーク、私は元気だから大丈夫よ。そんなことより……」
何か問いたげなエステルだったが、城から連れてきた侍女が使用人を従えて部屋に入ってきたことで一旦押し黙った。
「失礼いたします、エステル様。馬車が足止めされてしまったことで、荷物が全部届いておりません。急ぎこちらの物だけ運ばせましたが、残りは明日以降になるそうです」
運び込まれたものはトランクや長持だった。男たちが担いできたものをメイドたちが受け取っている。
「それは何」
「ドレスがほとんどですわ。トランクの方には宝石とお化粧道具……あぁ湯浴みに必要なお道具も入っていますね。エステル様のお世話には全然足りませんが、仕方ありません。明日になればもう少しマシになるかと」
「ドレスって言った? ちょっと見せて」
「え……、あ、エステル様!」
ずんずんと長持に近づいた彼女は蓋を開け、中から衣装を取り出した。最初に出てきたのは青い豪奢なドレスだった。次は白の昼間用のドレスだ。取り出したドレスに目を走らせたエステルは——乱暴にそれらを投げ捨てた。
「エステル様! 何をなさるのです!」
侍女が止めに入ろうとした手を払いのけ、彼女はさらに長持の奥深くを引っ掻き回した。
「ねぇ、いつもの服は?」
「いつもの服、でございますか? それはいったい……」
「騎士団で訓練していたときの服のことよ。シャツとベストとトラウザーズ! 私、ちゃんと入れてって伝えたはずよ」
「まさか……! ここであんなものをお召になるのですか? エステル様はもう既婚者でいらっしゃいます。いつまでも男の子のような格好をして遊んでいる場合では……」
「遊んだりなんてしてない! 私はいつだって真剣だったわ。それに、ここでこんなドレス着れるわけないでしょう! あなたはここに来るまでの馬車の窓からいったい何を見ていたの!?」
最後に掴んだ紺色のドレスを床に投げつけて、エステルは叫んだ。
「街中が破壊されて、瓦礫や仮小屋で道も塞がれて……いつもの年なら収穫が近い麦の穂は一本も実っていないって。この状態で領民たちはどうやって冬を越すの? それより今このときにも食べる物がなくて困っているかもしれないのよ。そんなときにドレス? 笑わせないで」
「しかし、王家の姫としての威厳というものが……」
「私はもう姫じゃないわ。カークと結婚したもの。今日から私はエステル・ロータス。ロータス領の領主令息の夫人よ。おいでじゃない領主夫人の代理として、領民が崩れ落ちそうな仮小屋で暮らしているのを知りながら、湯浴みをしてドレスに着替えて優雅にお茶をしている場合じゃないわ」
散らばったドレスに忌々しそうな視線を向け、エステルは侍女に迫った。
「もう一度言うわ。私の訓練服を持ってきて。今すぐにとは言わないけれど、最優先で届けて。それ以外の服はいらないわ。……ううん、どうせなら王都に送り返して換金してもらいましょう。その無駄な宝石と一緒に」
エステルがトランクに視線を移せば、侍女は自分の物ではないにも関わらずそれらを必死に抱えた。
「わ、わかりました。必ず持ってまいりますから! ですがこれらはすべて国王両陛下と姉姫様がエステル様のためにと選ばれた物です。すべてを送り返すわけには……」
「大丈夫よ。お父様もお母様もお姉様も、ちゃんとわかってくださるわ。ドレス一枚で麦が何袋買えるかしらね」
「エステル様!!」
顔面蒼白になった侍女は、せめてここにあるだけの物は死守せんと、メイドたちに急ぎ回収させて部屋を出ていった。
齢七十を超える彼は、魔獣暴走の戦いで一人息子を亡くしていた。息子には妻がいたが、二人の間に子はなく、いずれ他家から養子を迎える手筈を整えるはずだったと言う。だが魔獣暴走以前ならともかく、ここまで荒れ果てた領地を引き受けてくれる者も、また安心して任せられる者も見つけることができなかった。夫を亡くし体調を崩した息子の嫁は他領にある実家で静養中で、おそらく戻ってくることはないだろうと、事前に知らされていた。
「ですのでカーク様とエステル様が名乗りを上げてくださったと聞いて、神に感謝したほどです」
「名乗りを上げた、ですか? 待ってください、伯爵の方から依頼されたのでは……」
カークがそう質問を挟もうとしたが、老伯爵は感極まったように目を潤ませ、唇を震わせていた。
「王家は我が領地を見捨てたりなどされなかった……! 英雄殿と王女殿下を遣わせてくださったことがその証拠でしょう。国王両陛下と王太女殿下にも心から感謝申し上げます」
そのままとうとう泣き崩れてしまった伯爵は、感激が過ぎて朦朧としてしまい、執事にベッドへと運ばれていった。
とんだ挨拶となってしまったが、それよりもカークが優先しなければならないことがあった。
「エステル、大丈夫か? 疲れただろう。メイドたちに湯浴みの準備をさせるから、今日はゆっくり休むといい」
「カーク、私は元気だから大丈夫よ。そんなことより……」
何か問いたげなエステルだったが、城から連れてきた侍女が使用人を従えて部屋に入ってきたことで一旦押し黙った。
「失礼いたします、エステル様。馬車が足止めされてしまったことで、荷物が全部届いておりません。急ぎこちらの物だけ運ばせましたが、残りは明日以降になるそうです」
運び込まれたものはトランクや長持だった。男たちが担いできたものをメイドたちが受け取っている。
「それは何」
「ドレスがほとんどですわ。トランクの方には宝石とお化粧道具……あぁ湯浴みに必要なお道具も入っていますね。エステル様のお世話には全然足りませんが、仕方ありません。明日になればもう少しマシになるかと」
「ドレスって言った? ちょっと見せて」
「え……、あ、エステル様!」
ずんずんと長持に近づいた彼女は蓋を開け、中から衣装を取り出した。最初に出てきたのは青い豪奢なドレスだった。次は白の昼間用のドレスだ。取り出したドレスに目を走らせたエステルは——乱暴にそれらを投げ捨てた。
「エステル様! 何をなさるのです!」
侍女が止めに入ろうとした手を払いのけ、彼女はさらに長持の奥深くを引っ掻き回した。
「ねぇ、いつもの服は?」
「いつもの服、でございますか? それはいったい……」
「騎士団で訓練していたときの服のことよ。シャツとベストとトラウザーズ! 私、ちゃんと入れてって伝えたはずよ」
「まさか……! ここであんなものをお召になるのですか? エステル様はもう既婚者でいらっしゃいます。いつまでも男の子のような格好をして遊んでいる場合では……」
「遊んだりなんてしてない! 私はいつだって真剣だったわ。それに、ここでこんなドレス着れるわけないでしょう! あなたはここに来るまでの馬車の窓からいったい何を見ていたの!?」
最後に掴んだ紺色のドレスを床に投げつけて、エステルは叫んだ。
「街中が破壊されて、瓦礫や仮小屋で道も塞がれて……いつもの年なら収穫が近い麦の穂は一本も実っていないって。この状態で領民たちはどうやって冬を越すの? それより今このときにも食べる物がなくて困っているかもしれないのよ。そんなときにドレス? 笑わせないで」
「しかし、王家の姫としての威厳というものが……」
「私はもう姫じゃないわ。カークと結婚したもの。今日から私はエステル・ロータス。ロータス領の領主令息の夫人よ。おいでじゃない領主夫人の代理として、領民が崩れ落ちそうな仮小屋で暮らしているのを知りながら、湯浴みをしてドレスに着替えて優雅にお茶をしている場合じゃないわ」
散らばったドレスに忌々しそうな視線を向け、エステルは侍女に迫った。
「もう一度言うわ。私の訓練服を持ってきて。今すぐにとは言わないけれど、最優先で届けて。それ以外の服はいらないわ。……ううん、どうせなら王都に送り返して換金してもらいましょう。その無駄な宝石と一緒に」
エステルがトランクに視線を移せば、侍女は自分の物ではないにも関わらずそれらを必死に抱えた。
「わ、わかりました。必ず持ってまいりますから! ですがこれらはすべて国王両陛下と姉姫様がエステル様のためにと選ばれた物です。すべてを送り返すわけには……」
「大丈夫よ。お父様もお母様もお姉様も、ちゃんとわかってくださるわ。ドレス一枚で麦が何袋買えるかしらね」
「エステル様!!」
顔面蒼白になった侍女は、せめてここにあるだけの物は死守せんと、メイドたちに急ぎ回収させて部屋を出ていった。