「雨の交差点で、君をもう一度」
第10章「図書室の手紙」
日曜の朝、窓を叩く小雨の音で目が覚めた。
昨日の夕方に決めたことが、まだ胸の奥でじんわりと熱を持っている。
——あの回収箱を、今日こそ見る。
ベッド脇の椅子に掛けたジャケットのポケットを探り、学生証と小さな青い封筒を確かめる。封筒はまだ空だが、中に入れるべき言葉は、昨夜の白い便箋に書き残した。
午前十時過ぎ、私はまたあの並木道を歩いていた。
前回よりも曇り空は明るく、濡れた葉の匂いが強い。校門の守衛さんは昨日と同じ新聞をめくっていて、私が学生証を差し出すと「また来たの?」と笑った。
「昨日、見られなかったものがあって」
「じゃあ、急ぎなさい。今日は午後は貸切行事があるから、閉館が早いよ」
「はい」
図書室へ向かう廊下の床は、昨日の足跡がまだ柔らかく残っているように感じられた。
扉を押し開けると、昨日と同じ匂いが迎えてくれる。紙とインクと、少し古い木の棚の香り。
司書の女性に会釈し、昨日気づいた掲示板の下のラックへ向かう。
「回収物」と書かれた段ボールは、昨日のままそこにあった。
箱の中には、表紙の折れた文庫や、古い試験問題集、忘れ物らしいペンケース、そして——茶色く色づいた数枚の封筒が挟まっていた。
ひとつを手に取ると、差出人も宛名もない。ただ、細い罫線の便箋が三つ折りで入っている。
読んでいいのか、一瞬迷う。でも、ここは「忘れ物保管」だ。持ち主が現れなければ廃棄される。
そう言い聞かせて、そっと紙を開いた。
——『卒業おめでとう。ずっと言えなかったけど、あなたのことが好きでした。』
短い文。署名はない。けれど、インクの色も、文字の形も、見覚えがあった。
高校のとき、文化祭のポスター作成で一緒になった同級生が書いた手紙の字に似ている……そう思った瞬間、胸がざわついた。
いや、これは——。
なぜだろう、ふと、神宮寺の顔が浮かぶ。差出人不明の手紙。七年前の卒業式。届かなかった声。
まさか、これが——?
箱の奥を探ると、もう一つ、薄いブルーの封筒があった。
色がわずかに褪せ、角が少し折れている。
手に取った瞬間、指先がぴくりと震えた。私が持っている封筒とまったく同じメーカー、同じ質感。
封はされていない。中の紙を抜くと、そこには——。
『卒業式の朝、呼んだのは俺のほうかもしれない。聞こえていなかったなら、これを読んだときに思い出してほしい。』
日付は卒業式の日。署名はなかったが、その文字の癖を、私は知っていた。
角ばった字の端にほんのわずかな丸みを残す書き方。仕事で何度も見た赤入れの文字と同じ。
——神宮寺。
息が詰まった。
昨日、彼が言いかけてやめた言葉の続きを、今こうして読んでいるような感覚。
「もしあの時、ちゃんと聞こえていたら……」
あれは、きっと本音だった。
この手紙は、七年の間ずっと、この箱の底で眠っていたのだ。
閉館の時間が近づいてきた。
司書に「これ、持ち主に渡したいんです」と告げると、「卒業生で心当たりがあるなら、あなたが渡していいわ」と微笑まれた。
私は封筒をバッグにしまい、学生証を返して校舎を出た。
——どうやって渡せばいい。
電車の窓に映る自分は、少し顔色が赤い。
直接渡す? それとも、机の上にそっと置く?
いや、仕事の場でそんな真似は——。
その夜、机の上にブルーの封筒を二つ並べた。
一つは七年間空だった私の封筒。
もう一つは、七年間閉じられていた彼の封筒。
中身を入れ替えたらどうなるだろう。
私の「呼んだのは私です」という一文と、彼の「呼んだのは俺かもしれない」という一文。
合わせれば、きっとひとつの会話になる。
月曜の朝、私は早めに出社した。
まだ人の少ないフロア。神宮寺のデスクには、出張用の黒いバッグが置かれている。
私はそっと封筒を一番上の書類の下に差し込んだ。
彼の封筒と私の封筒——両方を重ねて。
何も書き足さず、何も消さず、ただそのまま。
席に戻って間もなく、背後から低い声がした。
「……香山」
振り返ると、神宮寺が立っていた。
手には、二つの封筒。
「これは……?」
私は息を吸い込み、彼の目を見た。
「七年前の、置き去りの手紙です。……両方とも」
彼の視線が、わずかに揺れる。
口を開きかけたそのとき、オフィスのドアが開き、クライアントが入ってきた。
現実の時間が、過去から私たちを引き戻す。
「——あとで、話そう」
「……はい」
それだけで、十分だった。
“あとで”は、もう逃げ場所じゃない。約束の時間になった。