「雨の交差点で、君をもう一度」
第十一章「約束のあとで」
午前中は、予定通りクライアントとの打ち合わせが続いた。
神宮寺はいつも通りの落ち着いた声で進行し、私は補足説明や資料の提示に徹した。
けれど、その合間にもデスクの端に置かれた二つのブルーの封筒が視界の端にちらつく。
七年間、互いに届かなかった言葉が、同じ場所に並んでいる。
この重さを、仕事のテンションで包み隠すのは限界があった。
昼休みになっても、神宮寺は自席から動かなかった。
私は自販機で買ったホットコーヒーを両手で包みながら、彼のデスクを横目で見た。
書類に目を落とす表情は変わらないが、時折ペン先が止まる。その指先の下に封筒があることを、私たちは知っている。
午後一番、彼から社内チャットが届いた。
《17時以降、会議室C、30分確保。来られる?》
《はい》
短いやり取り。けれど、それは確かに“あとで”の約束だった。
時計の針が17時を少し過ぎた頃、私は会議室Cのドアをノックした。
「どうぞ」という低い声に押されて中へ入ると、神宮寺は窓際に立ち、外の夕暮れを見ていた。
机の上には、あの二つの封筒が並んでいる。
「座ってくれ」
促されるままに椅子に腰掛けると、彼は封筒のひとつを手に取った。
「これは……俺が卒業式の日に書いた。結局、渡せなかった手紙だ」
便箋をそっと抜き取り、机に置く。
「呼んだのは俺かもしれない、と書いたけど——あの日、君の声が確かに聞こえた。けど、振り返った時には、もう人混みに紛れてた」
私は自分の封筒を開き、便箋を広げた。
「……呼んだのは私です。でも、言葉の最後まで届かなかった」
震える声で読み上げると、彼は小さく笑った。
「七年か。長かったな」
その笑みには、安堵と後悔が混ざっていた。
「……婚約者がいるって、噂を聞きました」
この際、胸に溜めた疑問も出さずにはいられなかった。
「婚約者?」
眉がわずかに動く。
「俺は結婚してないし、婚約もしてない。母が時々本社に顔を出すから、誰かが勝手に話を作ったんだろう」
言葉は迷いなく、まっすぐだった。
心の中の重石が、一気に外れる感覚がする。
「……じゃあ、あの指輪は?」
「母がくれたものだ。家族の記念日で。……紛らわしかったな」
彼は指輪を外し、机の上に置いた。金属の輪が照明を反射して、小さな光を放つ。
「君が距離を取ってた理由、ようやくわかった」
私の胸が、じんわりと熱くなる。
「避けられてると思って……正直、少し腹も立ってた」
「……すみません」
「いや、俺もちゃんと説明しなかった。おあいこだ」
しばらく沈黙が降りた。
会議室の窓から見えるビル群の向こうに、薄いオレンジの空が広がっている。
彼が静かに口を開いた。
「もしあの時、ちゃんと会えてたら……卒業式のあと、俺は君にどうしても伝えたかったことがある」
視線が真っすぐに私を捉える。
「——君が好きだ」
七年間、心の奥で何度も想像して、何度も諦めた言葉が、現実になって耳に届く。
「……私も、ずっと」
声が震えた。けれど、はっきりと続けた。
「ずっと、好きでした」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥の氷が溶けていく。七年前の自分に、ようやく届いた気がした。
神宮寺は机の封筒を重ね、私に差し出した。
「これ、もう回収箱に戻さないように」
私は頷き、両手で受け取った。
会議室を出ると、夜の気配がフロアに広がっていた。
デスクに戻る途中、奏多がこちらを見て「お疲れ」と笑った。
その笑みの奥に、少しだけ寂しさが見えた気がした。
——それも、あとで話さなければならない。
席に着くと、机の引き出しにしまっていた古い空の封筒が目に入った。
もう、空のまま置いておく理由はない。
私はペンを取り、便箋に新しい一行を書き始めた。
それは仕事の文章でも、高校時代の手紙でもない。
“これから”のための言葉だった。