「雨の交差点で、君をもう一度」
第4章「距離の取り方がわからない」
翌朝のオフィスは、曇り空と同じ色の空気に包まれていた。
私はデスクに着くなり、ノートパソコンを開いて資料のチェックに没頭するふりをした。——意識しないように、神宮寺の姿を探さないように。
昨日の噂が、まだ耳の奥で湿っている。
本当に婚約者がいるのなら、私がどんな顔で彼に接しても意味がない。距離を取ったほうがいい。そう自分に言い聞かせた。
午前九時、会議室Bに向かう途中、ちょうど彼と廊下ですれ違った。
「おはようございます」
会釈だけをして通り過ぎようとしたのに、彼の足が止まる。
「昨日の資料、見たか?」
「……はい。修正点はメモしてあります」
「じゃあ、後で確認する」
淡々としたやり取り。以前はもう少し、目を合わせてくれた気がする。今は視線が短く、すぐに逸れてしまう。
会議では、必要最低限の発言だけをした。
彼の質問には的確に答える。それ以上は踏み込まない。
片瀬さんが隣で補足するたび、私は一歩引いた場所に立つ。
——これでいい。これ以上近づけば、きっとまた期待してしまう。
休憩中、奏多が紙コップのコーヒーを手渡してくれた。
「なんか、神宮寺さんと距離とってない?」
「……そう見える?」
「見える。前はもっと自然に話してただろ」
「気のせいだよ」
笑ってみせても、奏多の目は納得していなかった。
午後、神宮寺からチャットが届く。
《この件、香山さんに直接確認したい》
《席にいます》
数分後、彼がやって来た。
「ここ、データの出典が違う。修正版のリンクを送ってくれ」
「わかりました」
視線を合わせないまま、指だけがキーボードを叩く。
「……何かあったか?」
不意に低い声。
「え?」
「いや、最近、避けられてる気がして」
「そんなこと——ないです」
否定しながら、声が小さくなった。
ほんの一瞬、彼の目に影が差す。何か言いかけてやめたように見えた。
夕方、急ぎの資料修正が入り、私は残業になった。
オフィスには数人しか残っていない。神宮寺はまだ会議室にいるらしい。
作業に集中していると、奏多が近づいてきた。
「夕飯、食って帰らない? おごるから」
「……いいの?」
「もちろん。疲れてるだろ」
そのとき、会議室のドアが開き、神宮寺が出てきた。
こちらを見たような気がしたが、すぐに視線を逸らし、資料を抱えてエレベーターに向かっていく。
私と奏多はその背中を見送りながらオフィスを出た。
外は小雨。傘を持っていなかった私に、奏多が当然のように自分の傘を差し出す。
「濡れるだろ」
「……ありがとう」
傘の下、彼の肩がすぐ近くにある。その温度が、少しだけ心を安定させた。
翌日も私は距離を保った。
神宮寺と必要以上に目を合わせない。業務連絡は片瀬さん経由に任せる。
でも、それはきっと伝わってしまっていた。彼の返事はますます簡潔になり、表情も硬い。
——これが正しい距離のはずなのに、どうして胸が苦しいんだろう。
答えが出ないまま、私は一日を終えた。
私はデスクに着くなり、ノートパソコンを開いて資料のチェックに没頭するふりをした。——意識しないように、神宮寺の姿を探さないように。
昨日の噂が、まだ耳の奥で湿っている。
本当に婚約者がいるのなら、私がどんな顔で彼に接しても意味がない。距離を取ったほうがいい。そう自分に言い聞かせた。
午前九時、会議室Bに向かう途中、ちょうど彼と廊下ですれ違った。
「おはようございます」
会釈だけをして通り過ぎようとしたのに、彼の足が止まる。
「昨日の資料、見たか?」
「……はい。修正点はメモしてあります」
「じゃあ、後で確認する」
淡々としたやり取り。以前はもう少し、目を合わせてくれた気がする。今は視線が短く、すぐに逸れてしまう。
会議では、必要最低限の発言だけをした。
彼の質問には的確に答える。それ以上は踏み込まない。
片瀬さんが隣で補足するたび、私は一歩引いた場所に立つ。
——これでいい。これ以上近づけば、きっとまた期待してしまう。
休憩中、奏多が紙コップのコーヒーを手渡してくれた。
「なんか、神宮寺さんと距離とってない?」
「……そう見える?」
「見える。前はもっと自然に話してただろ」
「気のせいだよ」
笑ってみせても、奏多の目は納得していなかった。
午後、神宮寺からチャットが届く。
《この件、香山さんに直接確認したい》
《席にいます》
数分後、彼がやって来た。
「ここ、データの出典が違う。修正版のリンクを送ってくれ」
「わかりました」
視線を合わせないまま、指だけがキーボードを叩く。
「……何かあったか?」
不意に低い声。
「え?」
「いや、最近、避けられてる気がして」
「そんなこと——ないです」
否定しながら、声が小さくなった。
ほんの一瞬、彼の目に影が差す。何か言いかけてやめたように見えた。
夕方、急ぎの資料修正が入り、私は残業になった。
オフィスには数人しか残っていない。神宮寺はまだ会議室にいるらしい。
作業に集中していると、奏多が近づいてきた。
「夕飯、食って帰らない? おごるから」
「……いいの?」
「もちろん。疲れてるだろ」
そのとき、会議室のドアが開き、神宮寺が出てきた。
こちらを見たような気がしたが、すぐに視線を逸らし、資料を抱えてエレベーターに向かっていく。
私と奏多はその背中を見送りながらオフィスを出た。
外は小雨。傘を持っていなかった私に、奏多が当然のように自分の傘を差し出す。
「濡れるだろ」
「……ありがとう」
傘の下、彼の肩がすぐ近くにある。その温度が、少しだけ心を安定させた。
翌日も私は距離を保った。
神宮寺と必要以上に目を合わせない。業務連絡は片瀬さん経由に任せる。
でも、それはきっと伝わってしまっていた。彼の返事はますます簡潔になり、表情も硬い。
——これが正しい距離のはずなのに、どうして胸が苦しいんだろう。
答えが出ないまま、私は一日を終えた。