「雨の交差点で、君をもう一度」
第5章「指輪の意味」
距離を置くと決めたはずなのに、その距離がますます居心地悪くなっていた。
神宮寺の視線が、時折こちらに向けられてはすぐに外される。その一瞬の空白に、言葉にならない感情が滲む。
金曜の午後、私はクライアント先への外出から戻り、エレベーターホールに向かった。
ちょうど扉が開き、片瀬さんと総務の女性二人が降りてくる。
楽しげな声が耳に入った。
「——やっぱり婚約指輪だったんだって」
「へえ、本当だったんだ。お相手ってやっぱり本社の……」
「うん、昔からの知り合いで、お家同士も懇意なんだって」
足が止まり、エレベーターの扉が閉まるまでの数秒が、やけに長く感じられた。
——やっぱり、そうなんだ。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
午後の会議で神宮寺と向かい合っても、私は視線を合わせられなかった。
「この資料、週明けまでに修正してほしい」
「はい」
短く返すと、彼はしばらく私を見ていた。何かを探るような目。
でも何も言わずに、ファイルを片付けた。
定時後、千草さんが声をかけてきた。
「香山さん、残業? あ、これ、差し入れ」
手渡された缶コーヒーを握ると、指先が少し温まった。
「ありがとうございます」
「……あんまり思いつめないようにね」
意味ありげな言葉に、私は返事をしなかった。
その夜、奏多からメッセージが届く。
《今から軽く飲まない?》
迷った末、承諾した。駅前の小さなバー。
彼はグラスを片手に、私の話を黙って聞いてくれる。
「……婚約者がいるなら、私は——」
「やめとけ」
奏多の声は低く、真剣だった。
「本当にそうなら、傷つくのは目に見えてる。……俺は、お前が笑ってるほうがいい」
その言葉に、喉が詰まった。
週明けの朝、オフィスでコピー機を使っていると、神宮寺が入ってきた。
左手の指輪が、蛍光灯の下で小さく光る。
「おはようございます」
「……おはよう」
短いやり取り。
それだけなのに、距離の冷たさがはっきりと感じられる。
午後、片瀬さんが私のデスクに来た。
「これ、神宮寺に渡してもらえますか? 会議室に置き忘れた資料なんです」
手渡されたファイルを持って、私は会議室へ向かった。
扉を開けると、神宮寺が一人でPCに向かっていた。
「これ、片瀬さんから……」
「ありがとう」
受け取る指先が、私の手に触れる。ほんの一瞬の温もり。
「……最近、避けてるだろ」
低い声に、心臓が跳ねた。
「そんなつもりじゃ——」
「じゃあ、なんで目を合わせない?」
問い詰めるような目。
でも、答えられない。“婚約者”という噂が、喉を塞ぐ。
「……すみません。仕事に集中してただけです」
そう言うと、彼はゆっくり視線を外した。
「そうか」
その後の空気は、重く沈黙に満ちていた。
会議室を出た瞬間、私は深く息を吐いた。
——この距離が正しいのか、もうわからない。
夜、自宅でメールを確認すると、神宮寺から資料の修正指示が届いていた。
その最後に、短い一文。
《……無理はするな》
ただそれだけ。でも、その言葉が心の奥で小さく灯をともす。
距離を取ると決めたはずなのに、その灯を消す勇気は、私にはなかった。