隠れ婚約、社内厳禁!――分析女子と学び直し男子の甘口スクランブル

第3話_試食会、数字が合わない

 九月の週末。商業施設一階のイベントスペースは、秋商戦の試食会で賑わっていた。天井の照明が煌々と輝き、近隣店舗のパンの香りと混じり合って、会場全体に複雑な匂いが立ちこめている。
 真由は来客数を記録したタブレットを見つめ、眉を寄せた。
 「……想定の六割しか来ていません」
 彼女の声は低いが、緊張がにじむ。分析表の仮説では十分な集客が見込めるはずだった。
 「近隣ベーカリーの焼き上がり、見落としましたね」純平が過去のノートをめくり、古い写真を取り出した。そこには、通路に人の流れを阻む“壁”ができていたイベントの失敗例が貼られている。
「什器を半マスずらしましょう。香りが溜まるスペースを作れば、人が立ち止まります」
 即座に行動に移す純平に、真由も頷いた。二人は什器を押し動かし、海苔の焙煎を始める。香ばしい匂いが漂い、通路の空気がわずかに変わった。
 一方、匠は声を抑えようとして、まるで口を閉じたまま呼び込みをしているかのようだった。
 「……どうぞ……」
 客は誰も足を止めない。
 「ゼロね」絵理が眉をひそめ、塩分計を軽く揺らす。
 「声量メーターを導入するわ。🔼はプラス五デシベル、✋はミュート」
 彼女の手信号に合わせて、匠の声は奇妙なリズムで上下する。客は一瞬驚くが、その明るさに惹かれて足を止める者も出始めた。
 しかし追い打ちをかけるように、貸し出しスピーカーが突如として沈黙した。
 「音が出ない……!」
 会場がざわつく。真由は一瞬考え、すぐに指示を出した。
 「焙煎を三分周期に調整します。匂いが途切れないようにして、音の代わりに嗅覚でリズムを刻むんです」
 純平は焙煎タイマーをセットし直し、海苔の香りが三分ごとに強く広がるよう調整した。やがて人の流れが緩やかに集まり始め、数字は徐々に回復していった。
 その最中、真由は足元に違和感を覚える。ヒールが靴擦れを起こしていたのだ。表情を隠しながら動き続ける彼女に、純平は気づいた。
 休憩時間、バックステージに彼女を呼び寄せると、ポケットから絆創膏と厚手の靴下を取り出した。
 「これ、使ってください」
 「……どうして持ってるんですか」
 「失敗ノートの付箋に、“靴擦れで途中離脱”ってあったから。二度と繰り返さないように」
 真由は言葉を失い、じっと彼を見つめた。心臓の鼓動が、香りのリズムに重なって鳴り響く。
 その後、テナント担当者が笑顔で近づいた。
 「いやあ、ご婚約おめでとうございます」
 真由は硬直する。口を開こうとした瞬間、純平が代わりに微笑み、さらりと返した。
 「ありがとうございます」
 その声は穏やかだったが、彼の胸の奥には鋭い痛みが走っていた。嘘を重ねることの重みが、少しずつ増していくのを感じながら。

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