隠れ婚約、社内厳禁!――分析女子と学び直し男子の甘口スクランブル

第4話_正体、塩梅よく明かせますか?

 試食会から数日後。新宿本社の会議室は、次回のプレゼン準備で慌ただしかった。社員たちがパソコンを叩き、スライドを整えている中で、絵理はふと視線を止めた。
 ――同じ紙袋を、二人とも持っている。
 それは前日の市場調査で配られた商店街限定の袋だった。色とりどりの模様が特徴的で、ひと目で同じものと分かる。
 「……なるほどね」
 絵理は声を上げず、塩分計を指先で軽く叩いた。真由と純平の視線が交差し、すぐに逸らされる。確信めいた空気が漂った。
 その夜。真由は一人、会議用のスライドを作り直していた。
「……嘘に頼らない導線設計をしないと」
 画面には“数字だけで勝負するプラン”が並ぶ。婚約の虚構に依存せず、データで突破できる道を必死に探そうとしていた。
 背筋に疲労を感じながらも、彼女は手を止めなかった。
 同じ頃。純平は古い木造の家に足を運んでいた。迎えたのは創業者である祖父だった。
 「……正体を明かすべきではないのか」
 厳しいが温かな声。純平は俯き、握り締めた拳を膝に置いた。
 「彼女の分析を汚したくないんです。僕の身分で評価が変わるなら、それは彼女に失礼ですから」
 祖父はしばし黙し、やがて短く笑った。
 「ならば、タイミングを見極めろ。守りたいものを守るために、告げるのはお前だ」
 その言葉を胸に、純平は夜の街へ戻った。
 商店街では、イベントに向けた試し売りが行われていた。灯りが軒先に揺れ、雨上がりの石畳に反射する。
 「小野さん、こちら、お願いします」純平が段ボールを差し出す。
 彼女が手を伸ばしたとき、思わず名前が零れ落ちた。
 「……真由さん」
 呼んだ本人も驚き、慌てて言い直そうとしたが、彼女は動きを止めたまま微笑んだ。
 「……はい」
 その一言に、二人の距離が一歩、確かに縮まった。
 ベンチに並んで腰を下ろすと、座面はまだ冷えて湿っていた。純平はハンカチで拭き、先に自分が腰を下ろしてから、真由のバッグが濡れないよう位置を整えた。
 「どうぞ」
 真由は少し黙ってから、静かに腰を下ろした。雨上がりの夜気が涼しく、彼女の頬を撫でた。
 そんな穏やかな時間を破るように、背後から匠の声が響く。
 「声が小さすぎて何も聞こえない!」
 「幸い、恋は聞こえるわ」絵理が冷ややかに切り返す。
 ふたりは顔を見合わせ、思わず笑った。秘密と真実の狭間で揺れながらも、心は確実に近づいていた。
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