令和恋日和。 ~触れられない距離に恋をして~
「あ、すみません」
低く、柔らかな声が耳に届いた。芙美が顔を上げると、眼鏡をかけた背の高い男性が、穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見ていた。年齢は自分とそう変わらないだろうか。落ち着いた雰囲気の彼の手には、デザイン論の本が握られている。表紙の鮮やかなオレンジと青の配色が、芙美の地味な文庫本と並ぶと、妙に調和して見えた。
「いえ……こちらこそ、置く場所が悪くて」
芙美は慌ててそう答え、視線を本から男性の顔に移した。一瞬だけ、彼の目と視線が交錯する。知らない人のはずなのに、その瞳にはどこか温かみがあり、居心地の悪さを感じさせなかった。彼女の胸の奥で、かすかな熱が灯るような感覚があった。それは、日常の中で忘れかけていた、微かで不思議なときめきだった。
男性――後に三浦侑と名乗る彼は、特に会話を広げることもなく、軽く会釈して自分の席に腰を下ろした。たったそれだけの出来事。なのに、芙美の心には、静かな湖面に石を投じたときのような、さざ波のような余韻が残った。彼女は本に目を戻したが、文字を追うことに集中できず、ちらりと隣の席を盗み見た。侑はすでに自分の本を開き、真剣な眼差しでページをめくっていた。その横顔には、穏やかさと知性が滲み、どこか安心感を与えるものがあった。
――なんで、こんなに気になるんだろう。
芙美は自分の心の動きに戸惑いながら、カフェオレのカップを両手で包み込んだ。温もりが掌に伝わり、彼女の心を少しだけ落ち着かせた。