愚図な妖狐は嗜虐癖な陰陽師に甘く抱かれる ~巡り捲りし戀華の暦~
序章

私はずっと貴方に会いたかった

 暦の上ではとっくに春を迎えたが、山の気温は低く、辺り一面は深雪に閉ざされた銀世界だった。
 それでも、春は確かに近づいている。
 凜とした冷たい空気の中に、香しい花の芳香が漂う──梅月夜(うめづくよ)のことだった。

 体中に鈍い痛みが暴れ回る中、少女の意識は遠のいていた。
 どうしてこうなったのか……考える余裕もなく、寒さと痛みで頭は混乱していた。

 視界が暗転し始め、彼女は緩やかに意識を手放そうとしていた。
 死にはしない──その確信はあった。
 何せ、自分は人ではない。決して不死身ではないが、身体は脆弱ではなく、傷の回復は無駄に早い。だから、ここで意識を失っても「死ぬことはない」と信じられた。
 そうして、意識が引き剥がされる中、眠りを阻む声が間近で響いた。

「……おい。大丈夫か」

 低く平らな声色だった。
 白い二枚貝のようだった瞼を、彼女はゆっくり持ち上げた。視界は霞んでよく見えない。だが、同じ言葉がもう一度響くと、意識は現に戻り、寒さと鈍痛で視界がパッと鮮明になった。

 目と鼻の先、触れ合いそうなほど近い距離に、精悍(せいかん)な顔立ちの青年がいた。
 短い髪は青みを帯びた濡羽色(ぬればいろ)。黒曜石のような暗い瞳は鋭く吊り上がり、耳は丸く「非ず者」の特徴は一切ない。

「人」だと一瞬で悟ったが、悲鳴は出なかった。
 ひと目見て、ただただ美しいと思えた。同時に、途方もない喜びと切なさが押し寄せ、覚えのない懐かしさが胸を満たした。

 導かれるように、彼女は彼の肩に手を回し、抱きついてしまった。
 ──ずっと会いたかった人にやっと会えた。
 潜在的にそう感じたのだ。だが、彼が誰か、自分の何かも分からない。

 狡猾で冷淡なはずの妖狐(ようこ)。だが、彼女は愚図で間抜けな「狐らしくない者」だった。よって、間を抜いてキネ。
 そんな不名誉な名を持つ少女の運命は、その日から緩やかに動き始めた。
 まるで、芽吹き綻ぶ花が、暦を重ねて枯れ落ちるように……。
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