愚図な妖狐は嗜虐癖な陰陽師に甘く抱かれる ~巡り捲りし戀華の暦~
 今度は静かに彼は言った。だが、その答えは案の定のものだった。
 それで終わりか。そう思ったが、彼は血の気のない唇を開き、続けた。

「過去がどうこうではない。生きている今が大事だと思う。だから、過去を振り返りたくない。生きている今を、ともに生きるこの瞬間を幸せにしてやりたいと思った。季音、それでは駄目なのか?」

 真摯な瞳を向けて言われる言葉に、淀みはひとつもない。
 紛れもない、彼の心からの言葉だろう。季音は首を振るう。

「駄目じゃないわ……私みたいな愚図にこれほどの幸せはないわ」

 ――だけど、狐になった理由は自分にとって大事なことだと思う。それを忘れてのうのうと生きていいはずがないと思う。
 そんな言葉を続けて告げると、彼は深いため息を漏らした。

「その因果か。それは、お前の身体を……」

 静かに彼が告げた瞬間だった。夥しい記憶の波が季音の脳裏に駆け巡る。

 ……社で手を合わせる過去の自分。床に伏せた自分の前に現れた一匹の狐。彼女は何と言っただろうか。

(わらわ)がその願いを叶えてやろうぞ。その代わり、妾に……』
 妖艶に微笑む彼女は(しか)と言った。

『身体を貸しておくれ』と――

「……私が〝あの方〟に身体を貸したから、そうなったの」

 消え入りそうな声で告げた瞬間、季音の視界は暗転した。
 意識は次第に薄れ、龍志の声が遠くなる。深く深く水底に沈むように、季音の意識は遠くに葬られた。

 やがて、視界が白み、ゆったりと瞼を持ち上げると、目の前には朱塗りの門があった。
 瞬く間に門は開き、輝かしい光の中に押し込まれるように投げ込まれた。その時――自分に似た自分で人で非ず者がすれ違う。

「そろそろ限界も近い。のぅ、幸せだったか、藤香?」

 艶やかな声で優しく問われ、季音は目を大きく(みは)った。

 すれ違った狐は妖艶な笑みで季音を一瞥し、背を向けた。それは一瞬の出来事――彼女が門の外へ出た瞬間、音も立てずに門は固く閉じる。
 閉門の風圧に桜吹雪が舞い上がり、血のように生ぬるい風が季音の頬を(くすぐ)った。

 ※※※

 ぽつりと季音が何かを言ったと同時、彼女は目を大きく(みは)り、その場に崩れ落ちた。

 この一拍でいったい何が起きたのだろうか……龍志は理解できなかった。

「おい、季音……?」

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