愚図な妖狐は嗜虐癖な陰陽師に甘く抱かれる ~巡り捲りし戀華の暦~
 季音はその洞窟に入り、そこでようやく返り血を浴びた浴衣を脱ぎ、自分の着物に着替えた。

 龍志に出会ってからというもの、社の中で動く程度で、特に長く歩くことはなかった。さすがに歩きすぎたのだろう。足は棒のようになり、膝も痛い。季音はその場に腰を下ろすと、足を摩りながら、ふと懐を探った。

 不安に思うと、藤の簪を手に持ちたくなる癖は変わらなかった。だが、そこには探し物は当然のようにない。自分のしてしまったことは想像したくもない。それがあまりに悲しく、やるせなかった。しかし、懐の奥でガサリと紙が丸まった感触がして、それを引き出した。

 それは随分と懐かしいものだった。初めて逃走を企てた春の夜に彼からもらった文だった。辛くなった時、悲しくなった時、どうしようもなくなった時にこれを見ろと言われていた。
 ふとそれを思い出た季音は、折りたたまれた文を丁寧に開封する。

 書かれた字は相変わらずの達筆だった。きっと、これをもらった時には解読などできなかっただろう。
 だが、以前とは違い、今は全てを読むことができる。何せ、暇さえあれば彼から漢字を教わっていたのだから……。

 その短い文字の羅列を全て読み終えた瞬間、季音の瞳には分厚い水膜が張った。

 ***

 ――輪廻せし 我が身に(こい)は忘れなひ まだ来ぬ春の 甘い藤の香

 命がけでも愛すことを誓う、忘れるな。
 吉河龍志

 ***
 
 それは、自分を詠った短歌であり恋文だった。

 思えば、このようなものを貰ったことは前世にもなかっただろう。そもそも、詠龍は率直な愛の言葉を言うことがなかった。ただそれを見ただけで胸がいっぱいだった。堪らなく幸せだと思えてしまった。同時に、彼を好きになれたこと、再び巡り会えたことを感謝した。

 あと数日。彼が来た時がきっと自分の最期なのだろう。否、彼の最期か、共に逝くのか……。
 季音は再び短冊を折り畳み、それを胸の前で強く握りしめた。
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