愚図な妖狐は嗜虐癖な陰陽師に甘く抱かれる ~巡り捲りし戀華の暦~
 そうして曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の群生地に佇む四阿(あずまや)に辿り着き、書き物机に置かれた若草色の帳面の上に、藤色の玉をそっと置いた。

 そこに稚児の姿はない。だが、確かにその気配が庭のどこかに漂っていた。
 花々の間で揺れる風が、まるで稚児の笑い声のように季音の耳を(くすぐ)った。

 もう話は済ませたのだから、これ以上語ることもないだろう。あと数ヶ月もすれば、きっと会える。そして、これから心ゆくまで話せる時が来るのだから。
 季音は(ふじ)の簪を強く握りしめ、四季折々の花が咲き乱れる庭園を後にした。花々の色と香りが、希望の光となって季音の胸に刻まれていた。

 ***

 遠くで自分を呼ぶ声がした。それは愛おしい人の低く穏やかな声。
 季音が瞼をゆっくり持ち上げると、紺碧の闇と満天の星空が広がっていた。

 冷たい秋の夜風が頬を(くすぐ)ったが、身体は温かい。
 ふと気づくと、季音は龍志の腕に抱かれていた。
 すぐに視線が合わさった龍志の黒曜石の瞳は溺れるように潤っていて、静かな水流が頬を伝っている。

「季音……よかった」

 その声は震えていた。彼が泣く姿を初めて見た。季音はやんわり微笑み、手を伸ばして彼の涙を拭う。
 だが、龍志だけではないと気づく。
 瀧にも抱きしめられていた。彼女の大きな瞳は涙でいっぱいになり、肩を震わせて泣いていた。

「お瀧ちゃん……」

 そう言って彼女の髪を撫でると、「馬鹿季音、心配かけやがって」と憎まれ口を叩きながら、くしゃくしゃの泣き顔で季音をさらに強く抱きしめる。

 二人の傍らには、蘢と朧が心底ほっとした表情で佇んでいた。

「蘢様、朧様……」

 季音が名を呼ぶと、蘢は穏やかな瞳を潤ませ、ゆっくりと首を傾けて頷いた。朧は肩を軽くすくめ、柔らかな笑みを浮かべ、瀧と季音の頭を交互に撫でる。

「ご無事で良かったです……」
「嬢ちゃん、よく頑張ったな」

 二人の言葉に季音は頷き、やんわりと微笑んだ。

 季音の胸は、穏やかな温もりに満ちていた。ただこの瞬間を生きているだけで、幸せが溢れ、堪らないほど尊く思える。紡がれた数多の奇跡に、心から感謝するしかできなかった。

「さぁ、俺たちの家に帰ろう」
< 141 / 145 >

この作品をシェア

pagetop