甘く苦く君を思う
「……あちゃ。傘、持ってない」

外に出た途端、冷たい雨が降りしきっている。
バッグを頭にかざして駆け込んだビルの軒下には、先客がひとりいた。

黒いスーツを着た背の高い男性。
手にしている折り畳み傘は壊れているらしく、骨が歪んでいた。

「あ……すみません」

「いえ、どうぞ。雨宿りは先着順じゃありませんから」

そう言うと少し端に寄ってくれた。
低く落ち着いた声に、少しだけ緊張が解ける。
街灯の下で見たその横顔は端正で、でもなんだか少しだけ疲れたような表情を浮かべていて気になった。

「……降り止みそうにないですね」

彼の様子に思わずそう声をかけてしまった。すると彼は正面を向いたまま「そうですね」と言った。

「あんなに昼間は晴れていたのに。今日に限って予報を見てこなかったから傘を持ってなくて……」

「俺は持ってたんですけど、ご覧の通りで」

男性はへにゃりと折れた傘を掲げて笑った。
その仕草に、思わず笑みがこぼれた。

「笑ってもらえたなら救われます」

「……すみません」

ふと和らいだその笑顔が印象に残った。危ない人には見えず、むしろ誠実そうな雰囲気だった。

「お仕事帰りですか?」

「はい、パティシエールをしていて……」

「パティシエール? へえ。甘いもの好きなんです」

男性のその反応に思わず笑ってしまう。ほんの少しだけ打ち解けたような空気だった。
そこにちょうど一台のタクシーが空車のランプを付けて通りがかった。思わず手を挙げると、隣でも彼が手を挙げていた。

「どうぞ、先に乗ってください」

「えっ、でも……」

彼の方が先に雨宿りしていたのだから私より長くここにいるはず。それなのに譲ってくれようとする。

「女性を雨の中に置いておくのは気が引けますから。俺はアプリで呼ぶことにするのでお気遣いなく」

真っ直ぐな目でそう言われ、沙夜は小さく頭を下げてタクシーに乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、もう一度彼の姿を見た。
街灯の下、雨に濡れながらも凛と立つシルエット――
なぜだろう、名前も知らないのに胸に焼き付いて離れなかった。
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