甘く苦く君を思う
あれから1週間たったある夜。仕事を終え店を出るとまたもや空は灰色の雲に覆われていた。
ポツ、ポツと道路を濡らし始め、店を出て肩をすくめていた私の前に、傘がふと差し出された。

「よかったら、入りますか?」

 既視感のある声に顔を上げた瞬間、心臓が跳ねた。
 あの夜、軒下で出会った男性だった。

「また会いましたね」

「……はい。偶然ですね」

「ええ、偶然です」

思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

「覚えてましたか? もしよければ駅まで送りましょう」

前回は遅い時間だったが今日はそんなこともなく、雨も酷くない。
ほんの少し喋っただけの彼だったがなぜか安心感を覚え、傘に入れてもらった。

「この前はタクシーを譲っただけでちゃんと名乗れませんでしたね」

そう言って彼は歩きながら、彼は高倉(たかくら)(すばる)と名乗った。
そう名乗られたとき、私は妙に響きのいい名前だと思った。

「相川、沙夜です」
なあえを告げた瞬間胸の奥に温かいものが広がった。
前回数分話しただけなのに、なぜか以前からの知り合いだったかのように話が弾み、駅までの10分の道のりが彼と話していたらあっという間だった。

「ありがとうございました」

私は彼の肩がだいぶ濡れてしまっていることに気がつき、バッグに入っていたハンカチで水滴を拭った。

「ごめんなさい。こんなに濡れてしまって」

「気にしないで。それよりハンカチが濡れてしまう」

私の手を優しく止めてくれる。ハンカチは汚すためにあるようなものだが、よく見ると彼のスーツはどことなく品がある。もしかしたら値段の張るものなのでは?と心配になる。

「どうせクリーニングに出すつもりだったから大丈夫。それより沙夜さんは濡れてないか?」

彼に不意に名前を呼ばれ、ドキッとしてしまった。
彼はハンカチを取り出すと私に差し出してきた。

「沙夜さんのハンカチを濡らしてしまっただろう。よかったらこれを使って」

そう言うと濃紺のアイロンが効いたハンカチを渡された。
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