初恋の距離~ゼロになる日
「なるほど、俺は“笑っていたから”疑わしいのか」
 呟きは低く乾いていたが、刃ではなかった。自分の中のどこかを切り分けて見せようとする、冷静な手つきの声。

「……疑ったわけじゃ」
「疑ってる」
 即答。
 美琴は言葉を呑み込み、指先を組む。視線を落とした睫毛の影が、テーブルの縁に震える。

「言っておく。銀座の相手は、海外案件の窓口だ。契約書の最終確認を受け取りに行った。あの時、日程を“三か月後”に組み替える前提で、納品と検収の山を前倒しにできるか交渉していた」
「……え?」
「式の延期は、俺の事情じゃない。君の願いだ。なら、俺の側の負担は俺が片づける。そういう話だ」
 静かに整えられる説明の一つひとつが、胸の奥の冷たさに当たってはじける。

「笑って見えたのは、たぶん相手が“助かる”と言ったからだ。数字が動けば、人は笑う。――それだけだ」
「……私、何も知らなくて」
「知らないのは、責めない。けど、知らないまま決めつけるのは、責める」
 はっきり突きつけられて、肩が小さく跳ねた。

「なぜ言わなかった」
「……怖かったからです」
「何が」
「あなたの答えが。聞いて、壊れるのが」
「壊したのは、聞かなかったことだ」
 短く、痛い。
 それでも、逃げ場のない正しさだった。

 しばし沈黙。暖炉の火のはぜる音が、遠くで小さく弾ける。
 悠真がゆっくりと近づき、ソファの背に片腕を置いた。距離が縮む。息の温度が混ざり合う。

「俺も、言う。――宮村に笑っていた君を見て、面白くなかった」
 美琴ははっと顔を上げた。
「嫉妬した。理屈じゃない。婚約者が、他の男に見せる自然さを、俺だけが持っていないみたいで」
「……そんなこと」
「ある。俺は君の前で、構えてしまう。“完璧でいなきゃ”って癖が出る。だから、間抜けな軽口も出た」
 “美琴といると疲れる”。
 あの一文が胸をよぎる。視界が熱に滲んだ。

「謝る。あの夜の言葉は、最低だった。君の初恋に刃を向けた」
 初恋――その二文字に、胸の奥の柔らかな場所がかすかに鳴る。
「でも、謝るだけでは足りないから、言葉を増やす。俺は、君といると“疲れない”。むしろ、緩む。緩みすぎる自分が怖くて、強がった。それが真相だ」
 言葉の継ぎ目に嘘がない。
 それでも、長く沁み込んだ痛みは、すぐには形を変えない。

「……信じたいです。信じたいのに、怖さが勝ってしまって」
「怖いのは当たり前だ。だから、約束の復唱をする。“逃げないで話す”。――今、君は話した。次は俺の番だ」
 彼は一度目を伏せ、すぐに戻す。
「俺は、不器用で、嫉妬深くて、時々言葉を間違える。けど、それら全部を差し引いても、君を婚約者に選んだことだけは、一度も後悔していない」

 胸が強く脈打つ。
 言い切り方に、仕事の交渉とも違う、個人の決意の熱があった。

「……でも、私、あなたの足を引っ張ってばかりで」
「引っ張られているのは俺のほうだ。前へ。君のほうへ」
 冗談みたいに聞こえるのに、目は笑っていなかった。真剣そのものだった。

「それでも不安なら、試用期間をもう一枚重ねてみるか」
「試用期間?」
「三か月という猶予の中で、“言葉にする練習”を毎週一回、時間を決めてやる。昼でも夜でも、十五分でもいい。互いに三つまで、疑問や不満を必ず口に出す。罰はなし、否定もしない。――約束として、紙にしてサインする」
 思わず息が漏れた。
 仕事の人らしい、手続きの提案。けれど、その奥には確かに愛情の形が透けて見えた。

「……そこまで、してくれるんですか」
「してほしいのは俺のほうだ。君の初恋を、俺との現在形に繋ぎたい。過去に置かれたままだと、誰にでも奪える」
 静かに言い、指先でテーブルのメモ用紙を引き寄せる。
 万年筆が走る音が、やけに清潔だった。

『毎週一度、互いに三つ、言葉にする。否定しない。罰しない。逃げない。』
 さらりと書き、署名し、ペンを置く。
 彼は紙を半分に折って、美琴の前に滑らせた。
「サインは任意だ。強制はしない」
 しばらく見つめ、それからペンを取る。
 名前を書いた瞬間、胸の奥でほどけずにいた糸の一部が、ちいさく音を立てて緩んだ。

「……ありがとう」
 囁くと、悠真がふっと目元を和らげた。
「礼は要らない。俺の利にもなる」
「利?」
「君が黙る時間が減れば、俺の苛立ちも減る」
 率直すぎて、思わず笑いがこぼれる。
 その笑い声に、彼の喉仏がわずかに動いた。
「――それだ」
「え?」
「今の。俺の前で笑う練習も、毎週のメニューに入れてくれ」
 可笑しさと、泣きたいような温度がいっしょにこみ上げる。

「……でも、私、うまく笑えない日もあります」
「なら、笑えない顔も見せろ。どれが“本当”か、俺が一緒に見分ける」
 ゆっくりと伸ばされた手が、ためらう間も与えず指先に触れた。
 温度が、確かなものとして皮膚に宿る。

「美琴」
 名を呼ぶ声が、低く柔らかく落ちる。
「もう一度だけ言う。――俺は、君を離さない」
 言い切りの静けさが、部屋の空気の中心で輪になる。
 誓いとも宣告ともつかないその一行が、恐ろしいほどまっすぐだった。

 次の瞬間、胸のどこかで長く固まっていた氷がひび割れ、透明な水音が広がった。
 目尻が熱くなる。
「……ずるい人」
「知ってる。君の前でだけ、ずるくなる」
「どうして」
「手に入れたいから」
 まっすぐに。
 たった四文字が、何度目かの冬を一気に春へ傾ける。

 それでも、言わなければいけないことが残っている。
 美琴は息を整え、唇を噛むのをやめた。
「……私も、言います。銀座で見たとき、怖かった。置いていかれる気がして。あなたの横に、私じゃない誰かが自然に座る未来が、はっきり見えた気がして」
「見えないものは、俺が壊す」
「壊せますか」
「俺の仕事は、見えないリスクを言葉にし、数値にして、交渉で折ることだ。個人の未来くらい、言葉で塗り替える」
 無茶な理屈なのに、その無茶さごと信じたくなる熱があった。

「……それでもまだ、痛いんです。あの夜の言葉が」
「痛みは残る。消えない。それを前提で、一緒に歩く。――“無傷”を約束はしない。“治癒”を約束する」
 治癒。
 静かな単語が、胸の奥に温かく沈む。

「……わかりました。毎週の約束、続けます。逃げないで話します」
「よし」
 短く、それだけ。
 けれど、その“よし”は、背に回された毛布みたいに確かだった。

 時計が八時を告げる。
 外の雪は細くなり、窓辺の白が淡く残る。
「今日は送る」
「大丈夫です、ここは家です」
「玄関まで」
 くだらない押し問答を二往復。結局、並んで廊下を歩く。
 ドアの前で立ち止まり、彼はコートを手に取った。

「次は、金曜の夜。二十時。十五分の面談だ」
「面談って言わないでください」
「じゃあ“心ならし”」
「……もっと恥ずかしいです」
 ふっと二人の喉が笑う。
 その重なり方が、ほんの少しだけ以前に似ていた。

「おやすみ」
「おやすみなさい」
 扉が閉まる。
 残響のように、低い声が耳の内側に残った。

 応接間に戻ると、テーブルの上の紙に目が留まる。
 “否定しない。罰しない。逃げない。”
 署名の滲みが、さっき落ちた涙の輪を思わせて、思わず苦笑した。

 窓の外、庭に積もりかけた薄い雪に、足跡はまだない。
 初恋と現在形が、そっと並んで立っている。
 完全には寄り添いきれない。けれど、もう背を向けてもいない。

 胸の奥の痛みは、確かにまだそこにある。
 けれどその真ん中に、さっきの言葉が据えられている――
 俺は、君を離さない
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