初恋の距離~ゼロになる日
 「期限も解約条項もない契約」――その言葉が耳の奥で静かに反響している。
 美琴は膝の上で指先を重ね、視線を落としたまま、小さく笑みを漏らした。

「……ずるい言い方です」
「君にそう思わせるのは、俺の特権だ」
 軽やかに返すのに、声の奥底は真剣だ。

 少しの沈黙の後、悠真がまっすぐにこちらを見据えた。
「美琴。――俺は君と結婚したい。条件とか、家同士の事情とか、そういうものは全部脇に置いた上で」
 その言葉の芯の熱が、距離を詰めてくる。
「君じゃなきゃ駄目なんだ。初めて会ったときから、そういう空気を纏っていた。近づけば静かになるのに、離れるとざわつく」

 美琴の喉の奥がきゅっと締まった。
 初めて会ったあの日、自分はただの影のように立っていただけだと思っていた。
「……私、そんな存在になれていたんですか」
「なってた。君だけが、俺の呼吸を自然にしてくれた」
 低く落とされる声が、鼓動に触れる。

 気づけば、美琴の頬を一筋の涙が伝っていた。
 慌てて拭おうとすると、悠真の指先がそっとそれを受け止めた。
「……泣かせたくて言ってるんじゃない」
「わかってます。嬉しくて……怖くて……」
「怖いのは、俺が壊す」
「壊せますか?」
「壊すまで、離れない」
 そのやり取りが、まるで誓いの言葉のように胸へ刻まれていく。

 美琴は深く息を吸い、ようやく口にした。
「……私も、あなたを愛しています」
 言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけ、温かさが全身に広がった。
 悠真の瞳に、一瞬、驚きと喜びが同時に浮かぶ。

「もう一度、言って」
「……愛しています」
 今度は、はっきりと。
 彼の唇が微かに弧を描き、その笑みは今まで見た中でいちばん柔らかかった。

「……ありがとう。やっと、俺たちは同じ場所に立ったな」
 その瞬間、悠真の手が美琴の頬から髪へと滑り、優しく撫でる。
 指先の温度が、寒い季節の境界を越えて、心まで溶かしていく。

「式の日取りは、もう延ばさない。三か月後、予定通りにやる」
「はい」
「その日が来たら、誰の前でも言え。――“愛してる”って」
「……練習しておきます」
「今、もう上出来だ」

 二人の間に、静かな微笑が流れた。
 言葉にできなかった日々、避け続けた時間、すれ違いと誤解の棘――それらすべてを踏み越えて、やっと辿り着いた温度だった。

 外はまだ冬の夜だが、胸の奥には春の匂いが確かにあった。
 美琴は、その匂いを忘れないようにと、そっと目を閉じた。
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