初恋の距離~ゼロになる日
 地下駐車場へと続くエスカレーターは、金属のきしむ音を静かに響かせていた。
 足元に落ちる二人の影が寄ったり離れたりする。そのわずかな揺らぎが、いまの距離をそのまま形にしたみたいで、美琴は視線を落とした。

 黒いセダンのドアが開く。
「乗って」
 短い言葉に逆らう理由はなかった。シートベルトを留めると、少し遅れて運転席のエンジンがかかる。低い振動が身体の奥に伝わる。

 車はゆっくりと地上に出た。街の灯が流れ始める。
 沈黙を破ったのは、ウインカーの乾いた音だった。

「さっきの宮村って男」
「はい」
「昔から知ってるのか」
「父の知人のご子息です。学生のころ、何度かお会いしただけで……今はたまに行事で顔を合わせるくらい」
「……そうか」

 それきり、また静けさが戻る。
 フロントガラスに冷えた風が白く曇り、エアコンの風でゆっくりと晴れていく。
 信号で止まったとき、不意に悠真がこちらを見た。ヘッドライトの反射が瞳に光を落とす。

「さっきの君は、よく笑ってた」
「……ええ」
「俺といるときは、そうじゃない」
 痛いところを突かれた気がして、美琴は手を握ったまま指先に力を込めた。
「そんなことないと思います」
「思う、じゃなくて。事実だ」

 間合いを詰めるような低さだった。
 美琴は言葉を探す。けれど、喉の奥に絡まった糸がほどけない。

「……楽しかっただけです。展示のことをいろいろ話してくださって」
「俺は? 俺の隣は、楽しくないのか」
「違います」
「じゃあ、なぜ笑わない」
「……うまく、笑い方を忘れてしまったのかもしれません」
 自嘲の色を混ぜた声が、自分で思ったより小さく響いた。

 ブレーキが柔らかく踏み込まれ、また信号。
 赤がフロントガラスに滲む。

「避けてる、だろ」
「避けていません」
「言葉ではそう言うけど、身体が遠い」
 彼の視線が、膝の上で固まった美琴の手に落ちる。
 次の瞬間、そっと手を取られた。
 温度が、指先から心臓にまで届く。

「……冷たい」
「今日は、外が寒かったから」
「本当に、それだけか」

 手が包まれているのに、心はどこかで身を固める。
 言えない言葉が、また喉でほどけないまま固まった。

「宮村といるときは、自然だった」
「彼は、気さくな方ですから」
「俺は、気さくじゃない」
「そういう意味では……」
 言いかけて、飲み込む。
 “あなたといると、疲れるって言っていたでしょう?”
 その一言が舌先まで上がってきて、どうしても外に出せない。

 悠真は微かに笑った。笑みの形だけ、目の奥は笑っていない。
「たぶん俺は、不器用なんだろうな」
「……いいえ。いつも、丁寧で、周りへの気遣いもできて、完璧で」
「完璧、ね。完璧ってのは、距離を作る言葉だ」
 青へ変わる。車は滑るように進み出した。

「……君が笑わない理由を、俺は知りたい」
「理由なんて」
「ある」
 短く断ち切るように言って、彼は続けた。
「連絡は遅く、会うと早く帰る。俺が何かしたなら言ってほしい。直すから」
 “何もしていない”と答えれば、嘘になる。
 “した”と言えば、あの夜の言葉を暴かなければいけない。

 美琴はほんの一瞬、瞼を伏せた。
 道路脇のイルミネーションが連なる。光の粒が窓を滑り落ちる雨のように見える。

「……私の問題です。私が、うまく距離を測れないだけで」
「距離は二人で測るものだろ」
 言葉に、熱がにじんだ。
 助手席に流れ込む空気が、さっきよりも少し温かい。

 屋敷の前に車が止まった。
 エンジンが落ち、急に世界の音が遠くなる。
 シートベルトの金具が外れる小さな音が、やけに鮮やかだ。

 降りようとしたとき、名前を呼ばれた。
「美琴」
 振り返る。
 悠真はしばし躊躇い、けれど覚悟を決めたように言った。

「――俺は、君の笑う顔が好きだ」
 胸の内側で、何かが強く鳴った。
「それを、他人にだけ向けるのは、正直……面白くない」
 面白くない、という柔らかな言い回しに隠された色――それが嫉妬だと、はっきりわかってしまう。

「……ごめんなさい」
「謝罪が欲しいわけじゃない」
 言葉を探す間に、視線がぶつかる。
 彼の瞳は、いつもの冷静さの底で静かに揺れていた。

「式の準備、進んでるらしいな」
「はい……母が」
「焦らなくていい。君が息苦しいなら、予定は調整する」
 想定外の言葉だった。
 胸の奥に、ほっとする温度と、別の冷たい感触が同時に訪れる。
 ――優しい。だから苦しい。
 優しさに甘えたら、また傷つく日が来るかもしれない。

「……ありがとうございます」
 それしか言えなかった。

 家に入ると、廊下に柔らかな灯りが落ちていた。
 ドアを閉めても、さっきの言葉が耳の奥で反響する。
 “俺は、君の笑う顔が好きだ”
 初恋の胸の奥で、甘い痛みがゆっくりと広がる。

 その夜、ベッドの上で天井を見つめながら、美琴は両手を胸に当てた。
 鼓動が少し早い。
 ――あの人は、嫉妬していた。
 自惚れだと笑い飛ばすことはできなかった。あの目は、冗談ではない。

 だからこそ、怖い。
 期待してしまいそうで。
 “疲れる”と言われた夜の棘は、まだ抜けていないのに。

 翌日。
 母と式場担当者との打ち合わせがあった。
 卓上には純白の花の見取り図、席次表のサンプル、音楽リスト。
「来月下旬なら招待状の返事も揃うし、会場の空きもあるの。あなたはどう思う?」
 母の問いに、喉の奥で言葉が絡む。
「……少し、時期を見直してもいいかもしれません」
「え?」
「今は互いに忙しいですし、準備も丁寧に進めたいから」
 母はじっと美琴を見つめ、やわらかく息をついた。
「あなたの顔色が冴えないのは、準備の忙しさだけじゃないわね」
「……大丈夫です」
「本当に?」
 問い詰める声ではなく、すくい上げる声。
 それでも、美琴は首を横に振るしかなかった。

 夜、机に向かい、白い便箋を前にする。
 書いては破り、破っては書く。
 やっと残ったのは、短い一文だった。

『結婚式の日程について、一度相談させてください。美琴』

 送信ボタンを押したあと、部屋の静けさが重く落ちてくる。
 窓の外、冬の入り口の空は澄んで、星が少し滲んでいた。

 ――距離を置く。
 その決意は変わらないはずなのに、今日の彼の目が、やけに胸の奥に残っている。
 嫉妬という名の熱が、冷たい決意の縁を溶かしていく。
 触れれば温かいのに、同時に怖い。
 その矛盾の中で、美琴はゆっくりと目を閉じた。

 数分後、スマートフォンが震える。
『わかった。時間を作る。君の都合を教えてくれ』
 それだけの文面なのに、視界が少し滲む。
 ――話せるだろうか。
 ――あの夜、バルコニーで聞いた言葉を。

 指先を握りしめる。
 初恋は、簡単に手放せない。
 けれど、誤解を抱えたまま踏み出す勇気も、まだ持てない。

 ベッドサイドの灯りを落とすと、闇が静かに降りてきた。
 耳の奥で、彼の声がもう一度、低く確かに響く。
 ――俺は、君の笑う顔が好きだ。

 その一行だけが、夜の底で長く光っていた。
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