銀の福音

第三十八話 女王への誘惑と揺れる心

 グラーヴェン村の診療所は、戦の気配が近づくにつれ、麓の村から避難してくる人々でごった返していた。

 リリアーナは、その喧騒の中で、黙々と負傷者の手当てを続けていた。日々の労働は、彼女から華やかさを奪ったが、同時に、これまで感じたことのなかった充実感を彼女に与えていた。

 だが、その心は、常に揺れていた。

 老婆エルマから聞いた「侍女マーサ」の話。それは、彼女の出生への疑念を増幅させていた。

 『もし、私が本当にローゼンベルク家の血を引いていないのなら、私がこれまで必死に守ってきたプライドは、一体何だったというの?』

 そんな彼女の心の隙間に、「賢者の真眼」が置いていった小瓶が、甘い毒のように囁きかける。『女王になれる』と。贖罪の道で見つけた小さな光と、心の奥底に染み付いた承認欲求という名の影。彼女は、その二つの間で引き裂かれそうになっていた。

 そんなある夜、診療所に、薬売りに扮した「賢者の真眼」の使者が、再び姿を現した。

 「お心は、決まりましたかな、リリアーナ様」

 「……私に、何をしろと言うの」

 「黒獅子将軍は、カイエン公爵と互角。戦は長引き、北方は疲弊するでしょう。その時こそ、好機です」

 男は、一枚の地図を広げた。

 「この小瓶の薬を、ヴォルフシュタイン城の水源に流し込むのです。これは、人の心を操る薬。兵士たちの忠誠心を、カイエン公爵から、あなた様へと書き換えるのです」

 「……そんなこと」

 「できます。あなた様こそが、真のローゼンベルク家の血を引く、正統な統治者であると、我々が証明するのですから。エリアーナ様は、侍女マーサの子。つまり、偽物なのです」

 男の言葉は、リリアーナの最も触れられたくない傷を、容赦なく抉った。

 「戦の混乱の中、あなたが兵を掌握し、黒獅子を退ければ、民はあなたを救世主と崇めるでしょう。カイエン公爵も、身重のエリアーナ様も、無力なあなた様の前にひざまずくことになる。どうです?悪くない取引でしょう?」

 男は、新たな小瓶を置くと、闇の中へと消えていった。

 リリアーナは、二つの小瓶を手に、震えていた。贖罪の道か、それとも、女王への道か。運命の選択が、彼女に迫っていた。

 ヴォルフシュタイン城。

 エリアーナは、窓の外に広がる、出陣していく兵士たちの姿を、不安げに見つめていた。

 その時、お腹に、これまで感じたことのない、強い痛みが走った。

 「……っ!」

 そばにいた侍女が、慌てて彼女を支える。

 「奥様!もしや、これは……!」

 陣痛。

 新たな命の誕生が、目前に迫っていた。

 その報は、すぐさま前線基地にいるカイエンの元にもたらされる。

 愛する妻の元へ今すぐ駆けつけたい衝動と、目前に迫る黒獅子の軍勢。

 カイエンは、統治者として、そして一人の男として、過酷な決断を迫られていた。

 そして、その報は、リリアーナの元にも届くことになる。

 エリアーナが、最も無防備になる瞬間。それは、彼女が計画を実行に移す、最大の好機でもあった。
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