銀の福音
第三十九話 産声と鬨の声
北の空が、鉄と血の匂いに染まった。
黒獅子将軍バルドゥールが率いる王都軍の猛攻は、凄まじかった。恐怖によって統制された兵士たちは、死を恐れぬ機械人形のように、カイエンが築いた防衛線へと殺到する。
「進め!進め!臆病者は俺が斬る!カイエンの首を取るまで、後退はない!」
バルドゥールの咆哮が、戦場に響き渡る。彼の戦術は、かつて親友を斬ったあの日と同じ。ただ、圧倒的な力で、敵の意志そのものを砕くという、獰猛なまでの蹂躙。
対するカイエンは、前線基地の作戦室で、盤上の駒を動かすように冷静に指示を飛ばしていた。
「第三部隊は、谷まで敵を引き付け、用意した錬金爆弾で足止めしろ。第四部隊は、補給路を断て。奴の力任せの戦術は、兵站が生命線だ。そこを断てば、獅子も牙を失う」
彼の論理は、戦場の熱狂とは無縁の、氷のように冷徹な輝きを放っていた。
だが、その彼の鉄の仮面を揺るがす報せが、伝令によってもたらされた。
「申し上げます!エリアーナ様が……ご産気づかれました!」
その瞬間、作戦室の空気が凍りついた。ギデオンが、息を呑んで主君の顔を見る。
カイエンの脳裏を、無数の思考が駆け巡る。
戦況は、膠着状態。自分がここを離れれば、士気は下がり、バルドゥールに隙を突かれる可能性がある。君主として、統治者として、ここに留まるのが「論理的」な判断だ。
しかし、彼の心の奥底で、別の声が叫んでいた。
毒に倒れた父が、最後に遺した言葉。
『忘れるな。その論理は、何のためにあるのかを……愛する者を守るためだ』
自分は、何のために戦っている?この国を、民を、そして何よりも、エリアーナと生まれてくる、新しい家族を守るためではなかったか。その最も大切な瞬間を見過ごして、勝利に何の意味がある?
『お前の論理が、愛する者を守れないと言うのなら……その時は、お前の論理の方が間違っているのだ』
父の言葉が、彼の心を縛っていた最後の檻を、打ち破った。
一方、ヴォルフシュタイン城の産室では、エリアーナが苦痛に耐えていた。
窓の外から聞こえる、遠い鬨の声。愛する人が戦場にいるという現実と、自らの体を裂くような痛みが、彼女の意識を何度も奪いそうになる。
だが、そのたびに、彼女は歯を食いしばった。
追放の馬車で誓った、あの日の決意。
『この子だけは、誰にも奪わせない。この子のための薪なら、私は喜んで燃え尽きよう』
この子は、絶望の淵にいた自分を救ってくれた、希望の光。この子の産声を聞くまでは、絶対に死ねない。彼女の錬金術師としての強靭な精神力が、母としての本能と結びつき、奇跡的なまでの生命力を生み出していた。
その報は、グラーヴェン村の診療所にも届いていた。
「エリアーナが……子供を……」
リリアーナは、その報せに呆然と立ち尽くす。
妹が、自分には決して手に入らない「母親」という幸福を、今まさに掴もうとしている。そして、それは自分が「女王」になるための、最大の好機でもある。
『エリアーナ様は、侍女マーサの子。つまり、偽物なのです』
「賢者の真眼」の使者の言葉が、彼女の心に蘇る。
贖罪の日々で見つけた光と、心の奥底に燃える嫉妬の炎。
彼女は、懐に隠し持っていた二つの小瓶を、震える手で握りしめた。
今、動かなければ、自分は一生、エリアーナの影のままだ。
リリアーナの瞳から、贖罪の道で見つけたはずの、か細い光が消えた。そして、かつての彼女が宿していた、野望の昏い光が、再びその瞳を支配した。
黒獅子将軍バルドゥールが率いる王都軍の猛攻は、凄まじかった。恐怖によって統制された兵士たちは、死を恐れぬ機械人形のように、カイエンが築いた防衛線へと殺到する。
「進め!進め!臆病者は俺が斬る!カイエンの首を取るまで、後退はない!」
バルドゥールの咆哮が、戦場に響き渡る。彼の戦術は、かつて親友を斬ったあの日と同じ。ただ、圧倒的な力で、敵の意志そのものを砕くという、獰猛なまでの蹂躙。
対するカイエンは、前線基地の作戦室で、盤上の駒を動かすように冷静に指示を飛ばしていた。
「第三部隊は、谷まで敵を引き付け、用意した錬金爆弾で足止めしろ。第四部隊は、補給路を断て。奴の力任せの戦術は、兵站が生命線だ。そこを断てば、獅子も牙を失う」
彼の論理は、戦場の熱狂とは無縁の、氷のように冷徹な輝きを放っていた。
だが、その彼の鉄の仮面を揺るがす報せが、伝令によってもたらされた。
「申し上げます!エリアーナ様が……ご産気づかれました!」
その瞬間、作戦室の空気が凍りついた。ギデオンが、息を呑んで主君の顔を見る。
カイエンの脳裏を、無数の思考が駆け巡る。
戦況は、膠着状態。自分がここを離れれば、士気は下がり、バルドゥールに隙を突かれる可能性がある。君主として、統治者として、ここに留まるのが「論理的」な判断だ。
しかし、彼の心の奥底で、別の声が叫んでいた。
毒に倒れた父が、最後に遺した言葉。
『忘れるな。その論理は、何のためにあるのかを……愛する者を守るためだ』
自分は、何のために戦っている?この国を、民を、そして何よりも、エリアーナと生まれてくる、新しい家族を守るためではなかったか。その最も大切な瞬間を見過ごして、勝利に何の意味がある?
『お前の論理が、愛する者を守れないと言うのなら……その時は、お前の論理の方が間違っているのだ』
父の言葉が、彼の心を縛っていた最後の檻を、打ち破った。
一方、ヴォルフシュタイン城の産室では、エリアーナが苦痛に耐えていた。
窓の外から聞こえる、遠い鬨の声。愛する人が戦場にいるという現実と、自らの体を裂くような痛みが、彼女の意識を何度も奪いそうになる。
だが、そのたびに、彼女は歯を食いしばった。
追放の馬車で誓った、あの日の決意。
『この子だけは、誰にも奪わせない。この子のための薪なら、私は喜んで燃え尽きよう』
この子は、絶望の淵にいた自分を救ってくれた、希望の光。この子の産声を聞くまでは、絶対に死ねない。彼女の錬金術師としての強靭な精神力が、母としての本能と結びつき、奇跡的なまでの生命力を生み出していた。
その報は、グラーヴェン村の診療所にも届いていた。
「エリアーナが……子供を……」
リリアーナは、その報せに呆然と立ち尽くす。
妹が、自分には決して手に入らない「母親」という幸福を、今まさに掴もうとしている。そして、それは自分が「女王」になるための、最大の好機でもある。
『エリアーナ様は、侍女マーサの子。つまり、偽物なのです』
「賢者の真眼」の使者の言葉が、彼女の心に蘇る。
贖罪の日々で見つけた光と、心の奥底に燃える嫉妬の炎。
彼女は、懐に隠し持っていた二つの小瓶を、震える手で握りしめた。
今、動かなければ、自分は一生、エリアーナの影のままだ。
リリアーナの瞳から、贖罪の道で見つけたはずの、か細い光が消えた。そして、かつての彼女が宿していた、野望の昏い光が、再びその瞳を支配した。