俺が、私で、アイドルで - 秘密を抱いてステージへ
 夕食の支度が終わったばかりのキッチン。
 瞳は、テーブルに置かれた水のグラスを握りしめていた。母に話すなら今しかない――そう自分に言い聞かせ、口を開く。

「……あのね、オーディション、受かった」

 包丁を拭いていた母の手が止まる。
「……オーディション?」

「アイドルの。男の子として」

 次の瞬間、空気が張り詰めた。
「男の子としてアイドル活動? ふざけないで!」

 薫の声は、キッチンの壁を震わせるほどだった。
「それで世間にどう思われるか、わかってるの? あんた、女の子なのよ?」

 瞳は口をつぐんだまま、グラスを握る手に力を込める。

「……じゃあ、何にならなきゃいけないの? あたしは、女の子らしくしてれば満足なの?」

「当然でしょう。普通に学校に行って、普通に将来を考えて――」

「普通ってなに? お母さんが言う“普通”って、誰のための普通なの?」

 一瞬、薫の声が途切れた。視線がわずかに揺れるのを、瞳は見逃さなかった。

「……あたし、もう他人のために生きるの、やめたい」

 静かな声が、自分の口から出た。キッチンの蛍光灯がやけに白く眩しく見える。

   ◇◇

  玄関のチャイムが鳴った。
 このタイミングで、と瞳は思わず息を呑む。母が怪訝な顔でドアを開けると、スーツ姿の男性が立っていた。

「こんばんは。Echoline Entertainmentの者です。突然失礼します」
 昼間、渋谷で声をかけてきたスカウトマンだった。

「息子さんには、先日オーディションでお会いしました」
 穏やかに頭を下げる。

 薫の視線が鋭くなる。
「あなたですか。こんなバカなことを持ちかけたのは」

「バカなことだとは思っていません」
 スカウトマンは静かに微笑み、深く頭を下げた。
「アオハラさんには、本物の素質があります。歌もダンスも、経験は浅いのに吸収が早い。ステージに立つと、周りの空気を変えるんです」
 言葉を選びながら、真っ直ぐに薫を見る。
「どうか、一度だけで構いません。彼がどんなふうに頑張っているかを、見ていただけませんか」

「……見て?」
 薫の声がわずかに揺れた。

 瞳は息を詰めた。
 ――お願いだから、言わないで。
 “娘じゃなくて、息子”で通して。
 母が何かを言いかけるように唇を開きかけて、しかし何も言わなかった。

「合同練習に参加したときの映像があります。ですが、それよりも――」
 スカウトマンは瞳に目をやる。
「ご本人の姿を、直接見ていただくのが一番だと思います」

 母の顔は硬いままだったが、その沈黙は完全な拒絶ではなかった。

「……練習を、見学するだけなら」
 薫の声は低く抑えられていた。
「認めたわけじゃない。けれど……」

 その一言に、瞳は思わず息を詰めた
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