俺様上司はお隣さん?
俺様上司と帰り道
成程。これが課長の車か。
炭の塊のように真っ黒なボディとシャープなデザイン。鏡面のような車体に夜の駐車場が反射している。
車種がSUVというのもまた乗っている人間のイメージに合っていた。上品だけれど少し無骨で、高さがあるところなどは課長が隣に立つと見栄えがした。
車には詳しくないが、お高そうだというはわかる。実家にいたころ私が乗っていたような、軽自動車みたいなお手軽さは微塵も感じない。
まさにデキる男の車、といった雰囲気だ。実際、的場課長は仕事が出来る人間なので、外面だけというわけではない。面と向かって言ったことは無いけれど。
「何じろじろ見てるんだ? 早く乗れ」
怪訝な顔をしてそう言うと、課長は助手席のドアを目で指し、自分は運転席に乗り込んだ。
私もそれに倣って乗り込む。ついでに「見られて困ることでもあるんですか」と憎まれ口も投げてやった。
助手席に座った後はシートベルトを締めてから車内を見回した。
フロント部分に所々木目調のデザインが施されている。他はメタリックな黒だ。全体的に高級感があり、ハイブランド店の内装のような趣があった。
後部座席に目をやると、クリーニングから受け取ったままなのだろうビニール袋に入った白いシャツと、ネクタイが無造作に置かれていた。
少しだけ覗く生活感に、女性の影は感じられない。ただそれなりに稼いでいる男性の車、といった感じだ。
以前、麻友の丸っこい軽自動車に乗せてもらった時は、車内にぬいぐるみやうさぎのクッションなどが置かれていた。車は本人の性格を映す鏡なのかもしれない。
課長の場合は、本人の性格なのか必要な物しか置いてないという印象だ。
そう客観的に見てはいたものの、実際のところ私は男性の車に乗ったことはほとんど無かった。
だから少し緊張していたのだ。
「なんだ、きょろきょろと。何か面白い物でもあるか?」
私が喋りもせずにずっと見回していたせいか、課長が口の端を少し上げ、くつくつ笑いながら言う。
意地悪そうな笑い方に少しむっとした。
その時ちょうど重低音が響いてエンジンがかかる。滑るように走り出した車は、思ったより振動が少なく、シートの座り心地も上々だった。値段は知らないが、高級車は細部まで違っているのだろう。
「いいえ別に。課長の弱点になるものは無いかとあら探しはしていましたが」
「そんなもんあるか」
憎まれ口を叩く私に、課長は運転しながら憮然とした表情でそう返してきた。けれどすぐに皮肉めいた笑みを浮かべる。
私は続けた。
「わかりませんよ? 課長が大の甘党だとわかったところですし、どこに弱みが隠されているかなんて本人では気付かない場合もあります。これから暫くお隣ですし、せいぜい私にバレないよう気を付けてください」
私が得意顔でそう言うと、課長はふんと鼻を鳴らして笑い飛ばした。
「は、お前こそ下手な攻撃してきたら、それこそ仕事で返してやるからな。覚悟しろよ」
にやりと笑い、視線だけを私に向ける。その余裕綽々といった表情が、胸の奥を妙にざわつかせた。
「それ職権乱用って言いませんか」
間髪入れずに突っ込むと、課長は何が楽しいのか瞳を緩めたまま運転を続けている。
まったく、性格が悪いったらありゃしない。これ以上残業を増やされるなんて絶対ごめんだ。
「課長、私に反抗的だと言いましたけど、それは課長の方だと思います」
前々から思っていたが、この人は私にだけやけに厳しい気がする。というより、やけに絡んできているというか。
それはたぶん、私が他の女性社員とは違いやり返してしまうからなのだろうが。
「それはお互い様だろ。お前は俺が怒鳴ろうが泣いたりしないし、仕事を増やせば逆にムキになってやり遂げようとしてくるからな。揶揄いがいがあるんだよ」
意味のわからない理屈を述べた課長が愉快そうに笑う。そのからりとした表情が窓越しの夜景と重なって、私に不思議な振動を与えた。まるで、心臓ごと身体を揺さぶられたみたいだ。
どうして課長は楽しそうなのだろうか。仕事中みたいに厳しい顔なんてせず、意地悪だったり嬉しそうだったり、笑顔ばかり私に向けてくるのだろう。
わからないけれど、課長が笑っていると悪い気分はしなかった。それどころか、私までなぜだかつられてしまい、口元に笑みが浮かんでしまう。
本当に、何なのだろうこの人は。厳しいかと思えば気を遣ってくれたり、助けてくれたり。かと思えば意地悪で、防犯だなんだと口五月蠅く言ってきたりもする。
こんな人は、初めてだ。
「揶揄うって何ですか。私は課長の玩具じゃありませんが」
「そうやってすぐ言い返してくるから面白いんだよ」
「意味がわかりません」
ああ言えばこう言われる。打てばすぐに響いてくる。その感覚が妙に心地よい。
私はどうしてか、課長との会話が嫌ではなくなっていた。昨日のお昼ではまだ腹が立って仕方がなかったはずなのに。自分の気持ちの変化に戸惑うが、相手は課長なのだ。考えても仕方がないと、素直にそれを受け入れていた。
そうしたらふと、思い出す。
「ですが課長、良かったんですか?」
「何がだ?」
私の問いに一瞬ちらりと視線を向けた課長は、すぐにまた前に目線を戻した。
そのまま浮かんだ疑問を口にする。
「私を送ることです。課長がお付き合いされている方に申し訳ないのですが」
改めて考えれば、私が座っているのは助手席なのだ。それも、相手は女子社員の間では噂になるほどの課長である。昨夜も思ったように、女性の一人や二人いてもおかしくはないだろう。
付き合っている相手がいるのなら、夜に他の女が助手席に座っていただなんて、絶対に喧嘩のもとになるだろう。
退社時間は大幅に過ぎていたし、誰にも見られてはいないと思うけれど、万が一ということもある。
人のモメ事に巻き込まれるのなどまっぴらごめんだ。
課長の返事を待っていると、ちょうど赤信号で止まった瞬間、顔がこちらに向いた。
それもなぜか不機嫌な顔をしている。眉間の皺が暗いせいで普段の倍深い。
「……そんなものは、いない」
微かに怒気を滲ませた低い声に、私は思わず顎を引いた。どうして怒っているのか、理由がわからない。
だけど返事には力がこもっていた。圧力も。
まるで私に刻みつけるような声音に茶化すことなどできなくて、黙って頷くのが精一杯だった。
「そう、ですか」
短い返事に満足したのか、それとも信号が変わったからなのか、課長は少し眇めた目で私をじっと見つめてから、視線を前に戻した。課長の横顔越しに、夜の夜景が流れていく。
どうして私の心臓は、先ほどからずっといつもより早く打っているのだろう。
「お前こそどうなんだ。最近は田崎達とよく飲みに行ってるんだろ。それとも既に相手がいるのか」
二の句が告げずにいると、課長がつっけんどんに聞いてきた。
どうしてここで田崎君の名前が出るのだろうか。確かに、麻友や他の同僚も含めて飲みに行ってはいるが。
なにより、なぜ課長が私の交友関係について知っているのかも疑問だった。田崎君から聞いたのだろうか。
彼が言うとは思えないけれど。それに、課長とそういった話をするような関係には見えなかった。
「田崎君はただの飲み友達です。課長、経理の片岡麻友をご存じですか。あの子と私は大学からの同期なんです。麻友が田崎君と仲が良いので、自然と一緒に飲むようになったんですよ」
私がそう答えると、課長は口を引き結び、それから思案する素振りをした。何だろうか。
「……そうか。片岡君繋がりか。田崎は営業だし、経理にはしょっちゅう顔を出しているからな」
「そうみたいですね」
私の返答に満足したのか、課長はふむ、と一息ついて、再び信号で止まると同時に私に視線を流してきた。
夜で車内が暗いせいなのか、夜景を反射した課長の黒い瞳がきらりと光って、私は思わずどきりとした。
視線に、色気を感じたからだ。
「……それで? 話は逸れたがお前、今付き合ってる奴はいないのか」
どうやら課長は、すべてを聞き終えるまで追求の手を緩めるつもりはないらしい。
何が悲しくて上司に独り身であることを暴露せねばならないのか、理解に苦しむし、やはりこれもセクハラではないのかと思うが、私自身聞いてしまった立場なので強くは言えない。
なので、仕方なく白状した。
「いませんが何か。どこかの誰かさんが残業ばかりさせるので、そんな相手を作る暇すら無いんです」
「ふ、そうか」
皮肉をたっぷり込めたというのに、当の本人はなぜか嬉しそうだ。揶揄うわけでもなく、単純に喜んでいるように見えるのは、私の勘違いだろうか。
「それは悪かったな。確かにここ最近の藤宮の頑張りは賞賛に値する。俺も助かってるよ」
「え……」
てっきり軽口で返されると思っていたのに、素直に礼を述べられて一瞬、慌てた。きっと今の私は間抜けにもぽかんんと口を開けているだろう。何しろ、そんな風に思われていただなんて、全然考えていなかったのだ。
私は驚いた表情のまま、運転席の課長を見つめた。
黒い流し目と視線が合わさる。
胸が大きく跳ねた気がした。それに、顔が熱い。
「何を驚いてるんだ。俺が褒めるのがそんなに珍しいか?」
「そ、れは、そうでしょう……幻聴かと思いましたよ」
気を抜けば崩れてしまいそうな表情を何とか保ちつつ、いつもの自分を意識して言葉を選ぶ。
課長を凝視したまま固まっている私に、彼は続けた。
「褒めてるんだから素直に喜べばいいさ。それより藤宮、お前そういう顔もするんだな」
私が課長の言葉尻を捉えたのと同じくして、車がブレーキで停止した。車窓からは見慣れた景色が見えている。
アパートの駐車場に着いたようだ。
課長はギアをパーキングに入れると、ハンドルに両腕を重ねて、その上に顎を乗せ私に顔を向けた。
じいと、黒く鋭い瞳に射すくめられる。
「顔、赤くなってるぞ」
「なっ……」
指摘されて、湧き上がった羞恥心に慌てふためいた。暗い車内でも課長の顔ははっきり見えていて、それは彼も同じというわけで、見られているという事実が、私の腹の底をむず痒くさせる。
「か、揶揄わないでください……っ」
怒っている風を装い言えば、くっくと押し殺したような笑い声が聞こえた。それが益々羞恥を煽り、私はいても立ってもいられなくなる。
「もう着いたんですから部屋に戻ります。送ってくださってありがとうございました!」
捲し立てるように言って、車のドアに手をかけた。逃げるようで癪だったけれど、この空間にこれ以上居たら、課長と二人きりでなんていたら、頭がおかしくなってしまいそうな気がした。
「待てって」
ロックを外して開けようとしたら、すぐさまロックをかけられた。驚いて振り返れば、身を起こした課長が至近距離にいた。課長の手が、私の座る助手席のヘッド部分に置かれている。近い。近過ぎだ。
「ちょ……何なんですか、課長、出してください!」
「もう少しで良いから聞け」
ありえない課長の行動に警戒心丸出しで叱りつけた。けれど課長は気にも留めてない様子で、諭すように私に告げる。
「何を、ですか」
課長を睨み付けながらなるべく低い声で威嚇しながら言えば、やれやれと言わんばかりの苦笑が返ってくる。
「あのな、藤宮。お前に仕事を回しがちなのは有能だからだ。他にもできる奴はいるがお前は飛び抜けてる。気付いてないみたいだから言っておく。藤宮がキャリアについてどんな考えを持っているか、俺にはわからんが、もし昇進を目指すなら希望を持って良い。俺はお前を推している」
そして、思ってもいない言葉を聞かされた。
私が有能? 飛び抜けてる? 希望を持て? 課長が、私を推しているって。それって。
「え……」
驚愕のあまり、言葉にならない声が出た。けれどなおも課長は続ける。表情は、柔らかい。
「だから、辛いこともあるだろうが、先を目指すなら頑張れ。そうじゃないなら、ちゃんと俺に言ってこい。それぞれ人生設計ってのがあるからな。無理強いをするつもりはないさ」
最後まで言い切ると、課長はふっと笑って私から離れた。それから、車のロックを外してくれる。私はその場から身動きが取れないまま、課長をじっと見つめていた。
「どうした。出ないのか?」
「……まさか、そんな風に思われてるなんて、思わないじゃないですか。卑怯ですよ」
「言ってないからな」
あっけらかんとした課長の言い草に、私は大きくため息を吐いた。
まったく。今夜はどうやら私の完敗らしい。こんな不意打ち、あんまりだ。
「……頑張りますよ。私に、出来るところまでは」
「出来るさ。藤宮なら」
背もたれに身体を乗せて、課長が顔だけをこちらに向けて言う。その根拠の無い励ましはなんなのだ、と言いたかったけれど、彼にはその根拠があるらしかった。
期待されるのは、素直に嬉しい。しかも、社会的にも個人的にも仕事が出来る人間側だとわかっている相手からなら、余計に。
「送ってくださったのも含め、ありがとうございますと言っておきます。癪ですけど」
「相変わらず一言多いな」
「課長の部下ですから」
「意味を追求するのはやめておこう」
「それが良いです」
打てば響く心地の良い会話を交わし、私は今度こそ車を降りた。そして頭を下げて、ドアを閉める。課長も同時に車から降りてきた。そして、歩く私の隣に並ぶ。なんだか不思議な感じだった。
あの課長と、部屋は別にしろ同じ場所に帰っていることが。
「なあ藤宮、お前今日は晩飯は食べたのか?」
アパートの階段下、昨夜課長と鉢合わせたのと同じ場所で、ふいにそう聞かれた。
顔を向けると、優しげに微笑む課長が私を見ている。
「いえ、まだですけど……」
とにかく残業を早く終わらせようと、間食もせずにひたすらパソコンを叩き続けていたのだ。それを思い出した途端、お腹が空腹を訴えだした。言いたくはないが、結構な音が夜の最中に響き渡る。
今のは……絶対に課長に聞こえている。
「くっ……! はは、やっぱりそうか。なら藤宮、今夜は俺のところで飯食っていけ」
頬に登る熱を感じながら耐えていると、彼はにんまり笑ってそう付け足した。
「はい?」
一体、このうえ何を言い出すんだろうかこの男は。俺のところでとは。
それはつまり、課長の部屋でということだろうか。けれどもう深夜にもなろうかという時間に、男性の部屋にお邪魔するのは流石の私も常識として遠慮した方が良い気がする。
「食ってけって……」
「今日は鍋だ。酒もあるぞ? 昨日食材を買い込んだんだが、少し買い過ぎてな。日付までに食いきれないんだ。だから藤宮、片付けるの手伝ってくれ」
戸惑う私に、課長は留めとばかりに説明を並べた。
鍋に、お酒。ここ最近飲めていないのもあって、その単語に素晴らしい魅力を感じた。
それに、正直言って私はお酒に強い。どこまで飲めるかを試したことはないが、麻友達と飲んでも最後まで平気でいられるのはいつも私だけだ。飲み比べしても勝ってしまうし、父や母は水を飲むように酒を飲んでいたが顔色が変わったところを見た覚えは無い。おそらく、世に言う「ザル」という家系なのだろう。
なので、たとえ課長の部屋で飲んで食べても、酔いつぶれる事は無いと言い切れた。
よくある「酔った勢い」なんてものにもなる心配だって無い。それ以前に、課長だったら女性には不自由はしてなさそうだ。だからこれも、私を意識していないから誘ってくれているのだろう。
そう思うと、少しだけ胸が痛む気がした。
課長の意外な一面を見たり、今日送ってもらったことで以前よりも距離が近くなったように思えるからだろうか。
わからないけれど、温かいお鍋をつつきながらの一杯は、正直なところ大変魅力的だった。
なので、私は自分の空腹という欲求に許可を出すことにした。
「わかりました。それでは少しお邪魔します。食費も浮くので。ですが言っておきますが課長、私こう見えてお酒には強いんです。なので、足りない場合は買ってきてくださいね」
私がそう言うと、課長は切れ長の瞳を柔らかく細めて、「じゃあ飲み比べだな」と言って笑った。
その顔に、胸の奥がふんわりと暖かくなった気がして、自然と私も笑みが浮かんだ。
「よし、なら藤宮は一旦荷物を置いてこい。俺も部屋で着替えて準備をしておく」
「はい、わかりました」
階段を上がりながらそう言われ、課長が準備して待っていてくれることを意外に思った。しかし他人の家の台所を使うのも気が引けるし、やってくれるというのだから甘えても良いかと考え直す。
そんな風に思いながら、課長と一緒にアパートの階段を登ろうとした時だった。
「どうして、藤宮さんが的場課長と?」
背後から、聞き慣れた声がした。
咄嗟に振り返った先、通りにある街灯の下に誰かが立っている。
どこかで見たことがあるスーツ姿だ。それに少し明るめの茶色い髪。あれはーーー
「……田崎君?」
私が声を漏らしたのと、課長が「っち」と舌打ちをしたのは、ほぼ同時だった。
炭の塊のように真っ黒なボディとシャープなデザイン。鏡面のような車体に夜の駐車場が反射している。
車種がSUVというのもまた乗っている人間のイメージに合っていた。上品だけれど少し無骨で、高さがあるところなどは課長が隣に立つと見栄えがした。
車には詳しくないが、お高そうだというはわかる。実家にいたころ私が乗っていたような、軽自動車みたいなお手軽さは微塵も感じない。
まさにデキる男の車、といった雰囲気だ。実際、的場課長は仕事が出来る人間なので、外面だけというわけではない。面と向かって言ったことは無いけれど。
「何じろじろ見てるんだ? 早く乗れ」
怪訝な顔をしてそう言うと、課長は助手席のドアを目で指し、自分は運転席に乗り込んだ。
私もそれに倣って乗り込む。ついでに「見られて困ることでもあるんですか」と憎まれ口も投げてやった。
助手席に座った後はシートベルトを締めてから車内を見回した。
フロント部分に所々木目調のデザインが施されている。他はメタリックな黒だ。全体的に高級感があり、ハイブランド店の内装のような趣があった。
後部座席に目をやると、クリーニングから受け取ったままなのだろうビニール袋に入った白いシャツと、ネクタイが無造作に置かれていた。
少しだけ覗く生活感に、女性の影は感じられない。ただそれなりに稼いでいる男性の車、といった感じだ。
以前、麻友の丸っこい軽自動車に乗せてもらった時は、車内にぬいぐるみやうさぎのクッションなどが置かれていた。車は本人の性格を映す鏡なのかもしれない。
課長の場合は、本人の性格なのか必要な物しか置いてないという印象だ。
そう客観的に見てはいたものの、実際のところ私は男性の車に乗ったことはほとんど無かった。
だから少し緊張していたのだ。
「なんだ、きょろきょろと。何か面白い物でもあるか?」
私が喋りもせずにずっと見回していたせいか、課長が口の端を少し上げ、くつくつ笑いながら言う。
意地悪そうな笑い方に少しむっとした。
その時ちょうど重低音が響いてエンジンがかかる。滑るように走り出した車は、思ったより振動が少なく、シートの座り心地も上々だった。値段は知らないが、高級車は細部まで違っているのだろう。
「いいえ別に。課長の弱点になるものは無いかとあら探しはしていましたが」
「そんなもんあるか」
憎まれ口を叩く私に、課長は運転しながら憮然とした表情でそう返してきた。けれどすぐに皮肉めいた笑みを浮かべる。
私は続けた。
「わかりませんよ? 課長が大の甘党だとわかったところですし、どこに弱みが隠されているかなんて本人では気付かない場合もあります。これから暫くお隣ですし、せいぜい私にバレないよう気を付けてください」
私が得意顔でそう言うと、課長はふんと鼻を鳴らして笑い飛ばした。
「は、お前こそ下手な攻撃してきたら、それこそ仕事で返してやるからな。覚悟しろよ」
にやりと笑い、視線だけを私に向ける。その余裕綽々といった表情が、胸の奥を妙にざわつかせた。
「それ職権乱用って言いませんか」
間髪入れずに突っ込むと、課長は何が楽しいのか瞳を緩めたまま運転を続けている。
まったく、性格が悪いったらありゃしない。これ以上残業を増やされるなんて絶対ごめんだ。
「課長、私に反抗的だと言いましたけど、それは課長の方だと思います」
前々から思っていたが、この人は私にだけやけに厳しい気がする。というより、やけに絡んできているというか。
それはたぶん、私が他の女性社員とは違いやり返してしまうからなのだろうが。
「それはお互い様だろ。お前は俺が怒鳴ろうが泣いたりしないし、仕事を増やせば逆にムキになってやり遂げようとしてくるからな。揶揄いがいがあるんだよ」
意味のわからない理屈を述べた課長が愉快そうに笑う。そのからりとした表情が窓越しの夜景と重なって、私に不思議な振動を与えた。まるで、心臓ごと身体を揺さぶられたみたいだ。
どうして課長は楽しそうなのだろうか。仕事中みたいに厳しい顔なんてせず、意地悪だったり嬉しそうだったり、笑顔ばかり私に向けてくるのだろう。
わからないけれど、課長が笑っていると悪い気分はしなかった。それどころか、私までなぜだかつられてしまい、口元に笑みが浮かんでしまう。
本当に、何なのだろうこの人は。厳しいかと思えば気を遣ってくれたり、助けてくれたり。かと思えば意地悪で、防犯だなんだと口五月蠅く言ってきたりもする。
こんな人は、初めてだ。
「揶揄うって何ですか。私は課長の玩具じゃありませんが」
「そうやってすぐ言い返してくるから面白いんだよ」
「意味がわかりません」
ああ言えばこう言われる。打てばすぐに響いてくる。その感覚が妙に心地よい。
私はどうしてか、課長との会話が嫌ではなくなっていた。昨日のお昼ではまだ腹が立って仕方がなかったはずなのに。自分の気持ちの変化に戸惑うが、相手は課長なのだ。考えても仕方がないと、素直にそれを受け入れていた。
そうしたらふと、思い出す。
「ですが課長、良かったんですか?」
「何がだ?」
私の問いに一瞬ちらりと視線を向けた課長は、すぐにまた前に目線を戻した。
そのまま浮かんだ疑問を口にする。
「私を送ることです。課長がお付き合いされている方に申し訳ないのですが」
改めて考えれば、私が座っているのは助手席なのだ。それも、相手は女子社員の間では噂になるほどの課長である。昨夜も思ったように、女性の一人や二人いてもおかしくはないだろう。
付き合っている相手がいるのなら、夜に他の女が助手席に座っていただなんて、絶対に喧嘩のもとになるだろう。
退社時間は大幅に過ぎていたし、誰にも見られてはいないと思うけれど、万が一ということもある。
人のモメ事に巻き込まれるのなどまっぴらごめんだ。
課長の返事を待っていると、ちょうど赤信号で止まった瞬間、顔がこちらに向いた。
それもなぜか不機嫌な顔をしている。眉間の皺が暗いせいで普段の倍深い。
「……そんなものは、いない」
微かに怒気を滲ませた低い声に、私は思わず顎を引いた。どうして怒っているのか、理由がわからない。
だけど返事には力がこもっていた。圧力も。
まるで私に刻みつけるような声音に茶化すことなどできなくて、黙って頷くのが精一杯だった。
「そう、ですか」
短い返事に満足したのか、それとも信号が変わったからなのか、課長は少し眇めた目で私をじっと見つめてから、視線を前に戻した。課長の横顔越しに、夜の夜景が流れていく。
どうして私の心臓は、先ほどからずっといつもより早く打っているのだろう。
「お前こそどうなんだ。最近は田崎達とよく飲みに行ってるんだろ。それとも既に相手がいるのか」
二の句が告げずにいると、課長がつっけんどんに聞いてきた。
どうしてここで田崎君の名前が出るのだろうか。確かに、麻友や他の同僚も含めて飲みに行ってはいるが。
なにより、なぜ課長が私の交友関係について知っているのかも疑問だった。田崎君から聞いたのだろうか。
彼が言うとは思えないけれど。それに、課長とそういった話をするような関係には見えなかった。
「田崎君はただの飲み友達です。課長、経理の片岡麻友をご存じですか。あの子と私は大学からの同期なんです。麻友が田崎君と仲が良いので、自然と一緒に飲むようになったんですよ」
私がそう答えると、課長は口を引き結び、それから思案する素振りをした。何だろうか。
「……そうか。片岡君繋がりか。田崎は営業だし、経理にはしょっちゅう顔を出しているからな」
「そうみたいですね」
私の返答に満足したのか、課長はふむ、と一息ついて、再び信号で止まると同時に私に視線を流してきた。
夜で車内が暗いせいなのか、夜景を反射した課長の黒い瞳がきらりと光って、私は思わずどきりとした。
視線に、色気を感じたからだ。
「……それで? 話は逸れたがお前、今付き合ってる奴はいないのか」
どうやら課長は、すべてを聞き終えるまで追求の手を緩めるつもりはないらしい。
何が悲しくて上司に独り身であることを暴露せねばならないのか、理解に苦しむし、やはりこれもセクハラではないのかと思うが、私自身聞いてしまった立場なので強くは言えない。
なので、仕方なく白状した。
「いませんが何か。どこかの誰かさんが残業ばかりさせるので、そんな相手を作る暇すら無いんです」
「ふ、そうか」
皮肉をたっぷり込めたというのに、当の本人はなぜか嬉しそうだ。揶揄うわけでもなく、単純に喜んでいるように見えるのは、私の勘違いだろうか。
「それは悪かったな。確かにここ最近の藤宮の頑張りは賞賛に値する。俺も助かってるよ」
「え……」
てっきり軽口で返されると思っていたのに、素直に礼を述べられて一瞬、慌てた。きっと今の私は間抜けにもぽかんんと口を開けているだろう。何しろ、そんな風に思われていただなんて、全然考えていなかったのだ。
私は驚いた表情のまま、運転席の課長を見つめた。
黒い流し目と視線が合わさる。
胸が大きく跳ねた気がした。それに、顔が熱い。
「何を驚いてるんだ。俺が褒めるのがそんなに珍しいか?」
「そ、れは、そうでしょう……幻聴かと思いましたよ」
気を抜けば崩れてしまいそうな表情を何とか保ちつつ、いつもの自分を意識して言葉を選ぶ。
課長を凝視したまま固まっている私に、彼は続けた。
「褒めてるんだから素直に喜べばいいさ。それより藤宮、お前そういう顔もするんだな」
私が課長の言葉尻を捉えたのと同じくして、車がブレーキで停止した。車窓からは見慣れた景色が見えている。
アパートの駐車場に着いたようだ。
課長はギアをパーキングに入れると、ハンドルに両腕を重ねて、その上に顎を乗せ私に顔を向けた。
じいと、黒く鋭い瞳に射すくめられる。
「顔、赤くなってるぞ」
「なっ……」
指摘されて、湧き上がった羞恥心に慌てふためいた。暗い車内でも課長の顔ははっきり見えていて、それは彼も同じというわけで、見られているという事実が、私の腹の底をむず痒くさせる。
「か、揶揄わないでください……っ」
怒っている風を装い言えば、くっくと押し殺したような笑い声が聞こえた。それが益々羞恥を煽り、私はいても立ってもいられなくなる。
「もう着いたんですから部屋に戻ります。送ってくださってありがとうございました!」
捲し立てるように言って、車のドアに手をかけた。逃げるようで癪だったけれど、この空間にこれ以上居たら、課長と二人きりでなんていたら、頭がおかしくなってしまいそうな気がした。
「待てって」
ロックを外して開けようとしたら、すぐさまロックをかけられた。驚いて振り返れば、身を起こした課長が至近距離にいた。課長の手が、私の座る助手席のヘッド部分に置かれている。近い。近過ぎだ。
「ちょ……何なんですか、課長、出してください!」
「もう少しで良いから聞け」
ありえない課長の行動に警戒心丸出しで叱りつけた。けれど課長は気にも留めてない様子で、諭すように私に告げる。
「何を、ですか」
課長を睨み付けながらなるべく低い声で威嚇しながら言えば、やれやれと言わんばかりの苦笑が返ってくる。
「あのな、藤宮。お前に仕事を回しがちなのは有能だからだ。他にもできる奴はいるがお前は飛び抜けてる。気付いてないみたいだから言っておく。藤宮がキャリアについてどんな考えを持っているか、俺にはわからんが、もし昇進を目指すなら希望を持って良い。俺はお前を推している」
そして、思ってもいない言葉を聞かされた。
私が有能? 飛び抜けてる? 希望を持て? 課長が、私を推しているって。それって。
「え……」
驚愕のあまり、言葉にならない声が出た。けれどなおも課長は続ける。表情は、柔らかい。
「だから、辛いこともあるだろうが、先を目指すなら頑張れ。そうじゃないなら、ちゃんと俺に言ってこい。それぞれ人生設計ってのがあるからな。無理強いをするつもりはないさ」
最後まで言い切ると、課長はふっと笑って私から離れた。それから、車のロックを外してくれる。私はその場から身動きが取れないまま、課長をじっと見つめていた。
「どうした。出ないのか?」
「……まさか、そんな風に思われてるなんて、思わないじゃないですか。卑怯ですよ」
「言ってないからな」
あっけらかんとした課長の言い草に、私は大きくため息を吐いた。
まったく。今夜はどうやら私の完敗らしい。こんな不意打ち、あんまりだ。
「……頑張りますよ。私に、出来るところまでは」
「出来るさ。藤宮なら」
背もたれに身体を乗せて、課長が顔だけをこちらに向けて言う。その根拠の無い励ましはなんなのだ、と言いたかったけれど、彼にはその根拠があるらしかった。
期待されるのは、素直に嬉しい。しかも、社会的にも個人的にも仕事が出来る人間側だとわかっている相手からなら、余計に。
「送ってくださったのも含め、ありがとうございますと言っておきます。癪ですけど」
「相変わらず一言多いな」
「課長の部下ですから」
「意味を追求するのはやめておこう」
「それが良いです」
打てば響く心地の良い会話を交わし、私は今度こそ車を降りた。そして頭を下げて、ドアを閉める。課長も同時に車から降りてきた。そして、歩く私の隣に並ぶ。なんだか不思議な感じだった。
あの課長と、部屋は別にしろ同じ場所に帰っていることが。
「なあ藤宮、お前今日は晩飯は食べたのか?」
アパートの階段下、昨夜課長と鉢合わせたのと同じ場所で、ふいにそう聞かれた。
顔を向けると、優しげに微笑む課長が私を見ている。
「いえ、まだですけど……」
とにかく残業を早く終わらせようと、間食もせずにひたすらパソコンを叩き続けていたのだ。それを思い出した途端、お腹が空腹を訴えだした。言いたくはないが、結構な音が夜の最中に響き渡る。
今のは……絶対に課長に聞こえている。
「くっ……! はは、やっぱりそうか。なら藤宮、今夜は俺のところで飯食っていけ」
頬に登る熱を感じながら耐えていると、彼はにんまり笑ってそう付け足した。
「はい?」
一体、このうえ何を言い出すんだろうかこの男は。俺のところでとは。
それはつまり、課長の部屋でということだろうか。けれどもう深夜にもなろうかという時間に、男性の部屋にお邪魔するのは流石の私も常識として遠慮した方が良い気がする。
「食ってけって……」
「今日は鍋だ。酒もあるぞ? 昨日食材を買い込んだんだが、少し買い過ぎてな。日付までに食いきれないんだ。だから藤宮、片付けるの手伝ってくれ」
戸惑う私に、課長は留めとばかりに説明を並べた。
鍋に、お酒。ここ最近飲めていないのもあって、その単語に素晴らしい魅力を感じた。
それに、正直言って私はお酒に強い。どこまで飲めるかを試したことはないが、麻友達と飲んでも最後まで平気でいられるのはいつも私だけだ。飲み比べしても勝ってしまうし、父や母は水を飲むように酒を飲んでいたが顔色が変わったところを見た覚えは無い。おそらく、世に言う「ザル」という家系なのだろう。
なので、たとえ課長の部屋で飲んで食べても、酔いつぶれる事は無いと言い切れた。
よくある「酔った勢い」なんてものにもなる心配だって無い。それ以前に、課長だったら女性には不自由はしてなさそうだ。だからこれも、私を意識していないから誘ってくれているのだろう。
そう思うと、少しだけ胸が痛む気がした。
課長の意外な一面を見たり、今日送ってもらったことで以前よりも距離が近くなったように思えるからだろうか。
わからないけれど、温かいお鍋をつつきながらの一杯は、正直なところ大変魅力的だった。
なので、私は自分の空腹という欲求に許可を出すことにした。
「わかりました。それでは少しお邪魔します。食費も浮くので。ですが言っておきますが課長、私こう見えてお酒には強いんです。なので、足りない場合は買ってきてくださいね」
私がそう言うと、課長は切れ長の瞳を柔らかく細めて、「じゃあ飲み比べだな」と言って笑った。
その顔に、胸の奥がふんわりと暖かくなった気がして、自然と私も笑みが浮かんだ。
「よし、なら藤宮は一旦荷物を置いてこい。俺も部屋で着替えて準備をしておく」
「はい、わかりました」
階段を上がりながらそう言われ、課長が準備して待っていてくれることを意外に思った。しかし他人の家の台所を使うのも気が引けるし、やってくれるというのだから甘えても良いかと考え直す。
そんな風に思いながら、課長と一緒にアパートの階段を登ろうとした時だった。
「どうして、藤宮さんが的場課長と?」
背後から、聞き慣れた声がした。
咄嗟に振り返った先、通りにある街灯の下に誰かが立っている。
どこかで見たことがあるスーツ姿だ。それに少し明るめの茶色い髪。あれはーーー
「……田崎君?」
私が声を漏らしたのと、課長が「っち」と舌打ちをしたのは、ほぼ同時だった。


