俺様上司はお隣さん?

俺様上司とご忠告

「藤宮、ご苦労なことだな。今帰りか?」

笑いを含んだ声に即座に顔が反応した。もちろん、引き攣る形で。

やっとのことで仕事を終わらせ、さあ帰れる、というところで、なぜかぴったりのタイミングで玄関ロビーに現れたのが課長だ。

とりあえず、いつか本当に横っ面を張り倒してやると硬く心に誓いながら振り返ると、皮肉な笑みを浮かべた面がこちらを見下ろしていた。間の距離は三メートルほど。いつの間に近付かれたのだろう。まさか忍者の末裔じゃあるまいし。

当人である課長は昼に見たのと同じように楽しげに目を細めている。

何なのだろうか。このしてやったり顔は。まあ、実際やられたにも等しかったのだけれど。

結局、例のメールの後、私は確実に定時には終われない量の仕事を言いつけられた。

そしてお昼からの出勤だったにも関わらず、夜九時を過ぎるまで残業することになってしまったのだ。
無論、指示を出したのは課長である。

メールの仕返しだとしたら大人気ないどころではない。これが三十五にもなる男のすることだろうか。

「そうですね。どこかの甘党セクハラ課長が、無理な仕事を言いつけてきたせいでこの時間まで残業するはめになったので」

嫌味増し増し皮肉たっぷりに言い返す。昨日も今日も連続残業で、私の疲労と怒りは頂点に達していた。

そのうえ下着まで天敵上司に見られたのだから、こうなっても仕方がないと言えよう。

「お前、まだ俺のことセクハラ呼ばわりする気かよ。少しは用心しろ、この阿呆」

不遜な私に呆れたようにため息を吐いた課長は、やれやれと首を横に振る。その人を小馬鹿にしたような態度に、もう何度目かも知れない怒りがふつふつとわき上がる。

忠告は確かに受け取った。僅かだが感謝もしている。しかし、大きなお世話だとも思う。

「防犯ならちゃんとやっています。これでも一人暮らし暦は長いので」

そう、洗濯物は確かに不注意だったかもしれないが、ちゃんと通りからは見えない死角に干していたのだ。ただ課長のベランダからは丸見えだったというだけで。ドアスコープの目隠しなど戸締まりもしっかりやっているし、偶に百円に均一で買った男性ものの下着だって干している。まあ、ここ最近はやっていなかったけれど。というか、阿呆とは何だ阿呆とは。

「あのな、どちらにしても今まで外干ししてたんだろ。俺の隣の部屋からだって、高ささえ合えばお前の部屋のベランダが見えるんだぞ。これまでだって見えてたはずだ。空き部屋のベランダには物が無いからな。今まではただ単に運が良かっただけなんだよ」

「え……」

言われて、漸く課長の言わんとしていることに気が付いた私は思わず間抜けな声を漏らしていた。この人が何を指摘していたのか、その本当の意味を今になって理解する。

私の部屋は角部屋だ。課長の部屋のベランダから見えるということは、その隣の部屋、二部屋向こうから見えてもおかしくない。というか確かに見えていたはずだ。

でも、だからといって私の下着なんて見たい人間がいるだろうか。むしろそんな一番角部屋の洗濯物まで見てくるような不審者なんて、早々いるだろうか。課長の気にし過ぎのようにも感じる。

「課長、そこまで私の洗濯物に興味がある人間がいるとは思えませんが」

まだ友人の麻友のように可愛らしい女なら、そんなストーカー紛いの人物に狙われることもあるかもしれないが、私に関しては違うと思った。これまでの人生でモテた記憶はないし、今後もそう変わらない気がする。

そう思って、課長こそ阿呆だと苦笑していると突然、課長の表情が変わった。

形の良い眉が釣り上がり、瞳がすうと鋭く細められる。

「藤宮お前、やっぱり馬鹿だろう。馬鹿だ。ああ馬鹿だ。お前は馬鹿決定だ」

「なっ……」

少し間が空いて、急に氷のような冷たい目をしたかと思えば、これまで聞いたことがないくらい低く重たい声でそう言われた。まるで地を這うような音だった。

視線に射貫かれて、硬直した私の足がその場に縫い止められている。

身動きが取れないくらいの威圧感に、圧倒されていた。

どうやら私は、課長をこれ以上ないほど怒らせてしまったようだ。

課長は肩から怒りの気配を立ち上らせながら、ゆっくり私の方に歩いてくる。三メートルほどあったはずの距離が、どんどん詰められてしまう。

始めて課長を恐いと思った。だから無意識だったのだろう、かろうじて動いた右足が、じり、と後ろに後ずさる。

「な、何なんですか……課長、私に突っかかるのはいい加減にしてください……っ」

必死にそれだけを言い募るけれど、課長は私の声が聞こえていないかのようだった。そしてすぐに、私と課長の間がゼロ距離になってしまう。

まるで昨夜階段に居た時のように、私と課長の距離が近い。だけど状況は全く違う。
今感じている恐怖は、落ちかけたからではなく、目の前の課長の迫力のせいだ。

逃げなければ、と。

理屈も無く本能が決定を下す。

「わ、私もう帰ります。失礼します……っ」

それだけ言って、私は逃げるように早足で課長の横を通り過ぎようとした。けれど、課長は素早く私の前に回り込んで道を阻んでしまう。

「課長、通れません」

負けん気を必死で引っ張り出して、絞るように言った。もしかしたら声は震えていたかも知れない。

そんな私を見て、課長は片眉をぴくりと動かしてから、顔を俯かせ長い息を吐いた。それから、再び顔を上げて、昨夜と同じような顔で柔らかく瞳を緩める。

「……待てって。どうせ同じところに帰るんだ。送ってやるよ」

言って、口端を軽く上げてみせる。笑っていると言うよりは「構わないだろう?」と私に尋ねている。
私が断るとは思っていないらしい。

急変した課長の態度に呆気に取られたせいか、すぐに返事ができなかった。

「は……?」

かわりに出たのは状況が掴めないことを現す呟きだ。

「だから、俺が送ってやるって言ってるんだよ。お前歩きだろう? 俺の車に乗っていけ」

偉そうな態度はいつもと同じだ。

違うのは、目線が合ってないのとほんの少しだけ耳の端が赤いこと。なぜ赤くなっているのかは、わからない。

一体どういう風の吹き回しだろうか。気まぐれにしてもわけがわからない。

確かに同じ場所に帰るというのは合っているけど、なんだか言い方が嫌だった。

それではまるで同棲しているみたいに聞こえてしまう。

頭でぐるぐる考え事をしていると、業を煮やしたのか課長が顔を寄せて「おい、聞いているのか」と詰めてきた。
目の前に無駄に整った顔を持ってこられて、思わずびくりと肩が反応してしまう。

「阿呆面してないで、行くぞ藤宮」

固まる私に構わず、課長が私の手首を握って歩き始める。掴まれたのは、バッグを持っていない方の左手だった。
そのせいで、私の意識が一気に正気に戻る。

そして阿呆面と言われたことに腹が立った。一端の大人の女性に言う言葉だとは思えない。

課長はいちいちいらない言葉が多過ぎる。大柄だし、正論振りかざしてくるし、何よりむかつく。

なのに、掴まれた手を振り払えないのはどうしてだろう。

憤慨の中に混じるよくわからない感情を、突き詰めてはいけない気がして、私は考えるのをやめた。

そして、もうこの際課長をタクシー代わりだと思うことにした。

何しろ残業で疲れているのだ。指示したのはこの課長だ。だから送って貰うのだと、私の心が納得を始める。

使えるものを使って何が悪い。普通なら上司をタクシー代わりだなんてもっての外だろうが、課長だけは例外だ。

「仕方ないので送られてあげます。疲れてますので」

「ああ、それでいいさ」

そう言った課長が首を傾け私を見た。

切れ長の瞳に、喜色がありありと浮かんでいるように、見えたーーー

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