恋の分岐点
五分間の雨宿り
夕方のキャンパスに、ぽつぽつと雨粒が落ち始めた。
空はついさっきまで青かったのに、授業が終わった瞬間、みるみるうちに雲が広がっていた。
「……やだ、降ってきたし」
七海は肩をすくめ、慌ててスマホを覗き込む。天気予報は「曇り時々晴れ」と書いてあったはず。折り畳み傘なんて持っていない。
足早に校舎を出るも、雨脚はすぐに強くなり、逃げ込むように校舎裏の自販機の屋根に滑り込んだ。
「最悪……止むまでどれくらいかかるんだろ」
自販機の赤と青の光が、雨粒でにじんで見える。薄暗い夕暮れと重なって、余計に心細さを煽った。
ポケットを探っても、ハンカチしか出てこない。髪から滴った水が頬を伝って落ちるのが、やけに冷たかった。
「……あー、最悪」
小さな声で繰り返したそのとき。
「大丈夫?傘ないの?」
ふいに声がして、七海は振り返った。
そこに立っていたのは、グレーのパーカーにジーンズ姿の青年。片手には小銭を握り、もう片方で髪を軽く払っている。
自販機で飲み物を買いに来ただけらしい。でも、その目は七海に真っ直ぐ向けられていた。
「……あ、はい。傘……忘れちゃって」
気まずそうに答えると、彼は少し眉を下げて笑った。
「そっか。今日は急に降ってきたもんね」
いつもサークルで見かける二年生の先輩。穏やかな笑顔と落ち着いた話し方で、後輩たちからの信頼も厚い。
七海にとってはちょっと遠い存在だったのに、今は同じ屋根の下で、わずか数十センチの距離しかない。
「……濡れてるじゃん。風邪ひくよ?」
「だ、大丈夫です。すぐやむ……はずだし」
口では強がったけれど、冷たい雨のしずくが首筋を伝って背中をひやりとさせる。
思わず身震いすると、朝陽が買ったばかりの温かいココアを差し出してきた。
「これ、よかったら」
「え、でも……」
「僕、もう一本買うから。気にしないで」
にこりと笑って押し付けるように渡され、七海は観念して受け取った。
缶の温もりが手にじんわり広がっていく。冷えた指先が一気に解凍されるようで、胸の奥までほっとした。
「ありがとうございます……」
小さな声で礼を言うと、彼は「どういたしまして」と軽く笑った。
それだけで、雨音のリズムが少し柔らかくなったように感じた。
雨粒が自販機の屋根を叩く音だけが響く。
七海は落ち着かない心臓をなだめるように缶を握り直し、ちらりと彼を見た。
――なんでだろう。ほんの少し会話しただけなのに、さっきまでの孤独感が嘘みたい。
そう思った瞬間、雨宿りの時間が特別なものに変わり始めていた。
「……七海ちゃんって、一年だよね?」
彼が缶コーヒーのプルタブを引きながら、ふいに話しかけてきた。
雨音に混じって響くその声は、不思議とよく耳に届く。
「え、あ、はい。そうです。えっと……朝陽先輩ですよね」
「うん、名前覚えててくれてるんだ」
「当たり前ですよ。サークルでも有名だし」
「有名って……別に大したことしてないけどな」
苦笑しながら肩をすくめる先輩。その仕草すら自然体で、七海は思わず見とれてしまう。
慌てて目を逸らし、缶ココアを口に運ぶ。甘さが舌に広がって、鼓動がさらに速くなる。
「一年生って、まだ授業とか慣れないでしょ。レポートとかも大変だよね」
「はい……正直、いっぱいいっぱいです。グループワークとか、人に合わせるのが下手で……」
ぽろっと弱音が出てしまい、七海は口を押さえた。
だけど朝陽は、驚くでもなく、ただ優しくうなずいた。
「わかるよ。僕も最初のころは同じだったから」
「……先輩が、ですか?」
「そう。人前じゃそれっぽく見せてただけ。心の中では置いていかれるかもって不安ばっかりで」
穏やかな笑顔の裏に、そんな時期があったなんて。
七海は少し驚きつつも、安心している自分に気づいた。
「……なんか、ちょっと救われました」
「ならよかった」
会話が途切れ、また雨音だけが残る。
その沈黙は、さっきよりも心地よかった。
ふと風が吹き込んで、七海の髪が濡れた頬に張り付く。
反射的に直そうとした瞬間、朝陽が自然に手を伸ばした。
「……あ、ごめん。濡れてたから」
「い、いえっ……!」
頬にかかった髪を指先でそっと外され、心臓が跳ねる。
わずかな触れ合いなのに、全身が熱くなるのを止められなかった。
「……七海ちゃん、顔赤いよ?」
「ち、違います!雨で……!」
「ふふ、そっか」
にこやかに笑う朝陽。からかわれているのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ胸の奥がじんわりと温かくなる。
――どうしよう。さっきまでただの優しい先輩だと思ってたのに。今は、それ以上に見えてしまう。
「……雨、もうちょっとでやみそうだね」
「そうですね」
言葉と一緒に胸の奥に湧き上がるのは、やんでほしい気持ちと、やんでほしくない気持ち。
相反する感情に戸惑いながら、七海はココアの缶をぎゅっと握りしめた。
自販機の屋根を叩いていた雨音が、いつの間にか弱まっていた。
さっきまでざあざあ降っていたのに、今はぽつり、ぽつりとまばらな滴だけ。
雲の切れ間からは、わずかに街灯の光が届いている。
「……もう、行けそうだね」
朝陽がそう言って傘を開く。深緑のシンプルな折り畳み傘。
七海は思わず「いいなあ」と小さくつぶやいた。
「一緒に入る?」
「えっ……!」
「このまま濡れて帰るのも大変だし。駅までなら、近いでしょ?」
さらりとした誘い方。からかいの色もなく、ただ自然に差し出される傘。
けれど七海の胸はどきりと鳴り響いた。
「……お邪魔します」
そう答えて、二人は肩を寄せ合うように傘の中へ入った。
雨上がりの冷たい空気と、すぐ横から伝わる体温。相反する感覚が、やけに鮮明に感じられる。
「七海ちゃんって、思ってたよりしっかりしてるよね」
「え?そんなことないです。ドジばっかりで……今日だって傘忘れたし」
「でも、さっき弱音こぼせたでしょ?それって、ちゃんと頑張ってる証拠だと思う」
まっすぐな声が耳に届く。
七海は顔を上げられず、ただ足元の水たまりを見つめた。街灯が映り込み、二人分の影が重なって揺れている。
「……先輩って、ずるいですね」
「え、なんで?」
「そんなふうに言われたら……意識しちゃうじゃないですか」
勇気を振り絞って吐き出した一言。
声がかすかに震えているのを、七海自身もはっきりと感じていた。
心臓は耳元で鳴っているかのように速く、強く。
朝陽は驚いたように目を瞬かせた後、ゆるやかに笑った。
「……それなら、ごめん。でも、やっぱり放っておけないから」
その笑顔に、胸の奥に温かいものが残った。
雨に濡れて冷えていたはずなのに、不思議と体の芯はぽかぽかしている。
街灯の下、影が重なり合うたびに、心臓がひときわ強く打つ。
その音に気づいているのは自分だけだと思うのに、隣にいる先輩まで気づいてしまっている気がした。
「じゃあ、ここで」
「……はい。ありがとうございました、先輩」
駅前で別れる瞬間、七海は思わず振り返った。
朝陽も同じように振り返り、軽く手を振って去っていく。
その背中が小さくなるまで見つめ続け、七海はようやく歩き出した。
――この五分で、私の恋が始まった。
そう思ったとき、胸の奥がじんわりと熱くなる。
雨宿りの時間は、ただの偶然。
けれどその偶然が、七海にとっては始まりになってしまった。
空はついさっきまで青かったのに、授業が終わった瞬間、みるみるうちに雲が広がっていた。
「……やだ、降ってきたし」
七海は肩をすくめ、慌ててスマホを覗き込む。天気予報は「曇り時々晴れ」と書いてあったはず。折り畳み傘なんて持っていない。
足早に校舎を出るも、雨脚はすぐに強くなり、逃げ込むように校舎裏の自販機の屋根に滑り込んだ。
「最悪……止むまでどれくらいかかるんだろ」
自販機の赤と青の光が、雨粒でにじんで見える。薄暗い夕暮れと重なって、余計に心細さを煽った。
ポケットを探っても、ハンカチしか出てこない。髪から滴った水が頬を伝って落ちるのが、やけに冷たかった。
「……あー、最悪」
小さな声で繰り返したそのとき。
「大丈夫?傘ないの?」
ふいに声がして、七海は振り返った。
そこに立っていたのは、グレーのパーカーにジーンズ姿の青年。片手には小銭を握り、もう片方で髪を軽く払っている。
自販機で飲み物を買いに来ただけらしい。でも、その目は七海に真っ直ぐ向けられていた。
「……あ、はい。傘……忘れちゃって」
気まずそうに答えると、彼は少し眉を下げて笑った。
「そっか。今日は急に降ってきたもんね」
いつもサークルで見かける二年生の先輩。穏やかな笑顔と落ち着いた話し方で、後輩たちからの信頼も厚い。
七海にとってはちょっと遠い存在だったのに、今は同じ屋根の下で、わずか数十センチの距離しかない。
「……濡れてるじゃん。風邪ひくよ?」
「だ、大丈夫です。すぐやむ……はずだし」
口では強がったけれど、冷たい雨のしずくが首筋を伝って背中をひやりとさせる。
思わず身震いすると、朝陽が買ったばかりの温かいココアを差し出してきた。
「これ、よかったら」
「え、でも……」
「僕、もう一本買うから。気にしないで」
にこりと笑って押し付けるように渡され、七海は観念して受け取った。
缶の温もりが手にじんわり広がっていく。冷えた指先が一気に解凍されるようで、胸の奥までほっとした。
「ありがとうございます……」
小さな声で礼を言うと、彼は「どういたしまして」と軽く笑った。
それだけで、雨音のリズムが少し柔らかくなったように感じた。
雨粒が自販機の屋根を叩く音だけが響く。
七海は落ち着かない心臓をなだめるように缶を握り直し、ちらりと彼を見た。
――なんでだろう。ほんの少し会話しただけなのに、さっきまでの孤独感が嘘みたい。
そう思った瞬間、雨宿りの時間が特別なものに変わり始めていた。
「……七海ちゃんって、一年だよね?」
彼が缶コーヒーのプルタブを引きながら、ふいに話しかけてきた。
雨音に混じって響くその声は、不思議とよく耳に届く。
「え、あ、はい。そうです。えっと……朝陽先輩ですよね」
「うん、名前覚えててくれてるんだ」
「当たり前ですよ。サークルでも有名だし」
「有名って……別に大したことしてないけどな」
苦笑しながら肩をすくめる先輩。その仕草すら自然体で、七海は思わず見とれてしまう。
慌てて目を逸らし、缶ココアを口に運ぶ。甘さが舌に広がって、鼓動がさらに速くなる。
「一年生って、まだ授業とか慣れないでしょ。レポートとかも大変だよね」
「はい……正直、いっぱいいっぱいです。グループワークとか、人に合わせるのが下手で……」
ぽろっと弱音が出てしまい、七海は口を押さえた。
だけど朝陽は、驚くでもなく、ただ優しくうなずいた。
「わかるよ。僕も最初のころは同じだったから」
「……先輩が、ですか?」
「そう。人前じゃそれっぽく見せてただけ。心の中では置いていかれるかもって不安ばっかりで」
穏やかな笑顔の裏に、そんな時期があったなんて。
七海は少し驚きつつも、安心している自分に気づいた。
「……なんか、ちょっと救われました」
「ならよかった」
会話が途切れ、また雨音だけが残る。
その沈黙は、さっきよりも心地よかった。
ふと風が吹き込んで、七海の髪が濡れた頬に張り付く。
反射的に直そうとした瞬間、朝陽が自然に手を伸ばした。
「……あ、ごめん。濡れてたから」
「い、いえっ……!」
頬にかかった髪を指先でそっと外され、心臓が跳ねる。
わずかな触れ合いなのに、全身が熱くなるのを止められなかった。
「……七海ちゃん、顔赤いよ?」
「ち、違います!雨で……!」
「ふふ、そっか」
にこやかに笑う朝陽。からかわれているのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ胸の奥がじんわりと温かくなる。
――どうしよう。さっきまでただの優しい先輩だと思ってたのに。今は、それ以上に見えてしまう。
「……雨、もうちょっとでやみそうだね」
「そうですね」
言葉と一緒に胸の奥に湧き上がるのは、やんでほしい気持ちと、やんでほしくない気持ち。
相反する感情に戸惑いながら、七海はココアの缶をぎゅっと握りしめた。
自販機の屋根を叩いていた雨音が、いつの間にか弱まっていた。
さっきまでざあざあ降っていたのに、今はぽつり、ぽつりとまばらな滴だけ。
雲の切れ間からは、わずかに街灯の光が届いている。
「……もう、行けそうだね」
朝陽がそう言って傘を開く。深緑のシンプルな折り畳み傘。
七海は思わず「いいなあ」と小さくつぶやいた。
「一緒に入る?」
「えっ……!」
「このまま濡れて帰るのも大変だし。駅までなら、近いでしょ?」
さらりとした誘い方。からかいの色もなく、ただ自然に差し出される傘。
けれど七海の胸はどきりと鳴り響いた。
「……お邪魔します」
そう答えて、二人は肩を寄せ合うように傘の中へ入った。
雨上がりの冷たい空気と、すぐ横から伝わる体温。相反する感覚が、やけに鮮明に感じられる。
「七海ちゃんって、思ってたよりしっかりしてるよね」
「え?そんなことないです。ドジばっかりで……今日だって傘忘れたし」
「でも、さっき弱音こぼせたでしょ?それって、ちゃんと頑張ってる証拠だと思う」
まっすぐな声が耳に届く。
七海は顔を上げられず、ただ足元の水たまりを見つめた。街灯が映り込み、二人分の影が重なって揺れている。
「……先輩って、ずるいですね」
「え、なんで?」
「そんなふうに言われたら……意識しちゃうじゃないですか」
勇気を振り絞って吐き出した一言。
声がかすかに震えているのを、七海自身もはっきりと感じていた。
心臓は耳元で鳴っているかのように速く、強く。
朝陽は驚いたように目を瞬かせた後、ゆるやかに笑った。
「……それなら、ごめん。でも、やっぱり放っておけないから」
その笑顔に、胸の奥に温かいものが残った。
雨に濡れて冷えていたはずなのに、不思議と体の芯はぽかぽかしている。
街灯の下、影が重なり合うたびに、心臓がひときわ強く打つ。
その音に気づいているのは自分だけだと思うのに、隣にいる先輩まで気づいてしまっている気がした。
「じゃあ、ここで」
「……はい。ありがとうございました、先輩」
駅前で別れる瞬間、七海は思わず振り返った。
朝陽も同じように振り返り、軽く手を振って去っていく。
その背中が小さくなるまで見つめ続け、七海はようやく歩き出した。
――この五分で、私の恋が始まった。
そう思ったとき、胸の奥がじんわりと熱くなる。
雨宿りの時間は、ただの偶然。
けれどその偶然が、七海にとっては始まりになってしまった。
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