恋の分岐点
十分間の終電待ち
金曜の夜の空気は、ほんの少しだけ甘くて、そして重たい。
居酒屋を出たあと、酔いと眠気を抱えながら二人で駅まで駆け込んだものの――無情にも目の前で閉じられるドア。
ガタンと響いた金属音と、発車ベルの余韻だけが、取り残された二人の耳に残った。
しんとしたホームに、急に二人きりの呼吸音だけが残される。
「……あーあ、やっちゃった」
肩で息をしながら七海が小さく笑った。
その声は少し上ずっていて、冗談めかしているのに、どこか本気の照れ隠しが混じっていた。
頬は赤く、前髪が少し額に張り付いている。
居酒屋の照明よりも冷たい蛍光灯の下で、その表情は不思議と幼くも、大人びても見えた。
照れと困惑が入り混じった、甘いのか苦いのか判別できない色をしていた。
足元には、もう誰もいないホーム。
さっきまで賑やかだったはずなのに、今は線十路の向こうの暗闇が広がるだけだ。
電光掲示板に表示される「次の電車まで10分」という無機質な文字が、この夜の行き先をあっさりと決めてしまっていた。
たった十分。けれど、今の二人には長いようで短い、不思議な重みを持っていた。
「卒業間近で、こんな時間まで残ってるなんてさ。最後の最後まで学生っぽいよな」
苦笑しながら朝陽はベンチに腰を下ろす。
冷たい金属の背もたれに寄りかかると、どこか心地悪いはずなのに、隣に七海が座るとその冷たささえ気にならなくなった。
七海も少し間を置いてから、鞄を膝に抱えるようにして、ちょこんと横に腰を下ろす。
ベンチのひんやりとした感触と、夜風が肌を撫でる冷たさが重なり合い、背筋をすうっと撫でる。
けれど、その距離が不思議と落ち着きを与えていた。
「こうやって二人で終電待つの、初めてかも」
「だな。……まあ、最後の学生生活、思い出にはなるんじゃない?」
朝陽は、どこかぎこちなく笑った。
七海もつられて笑うけれど、その笑みにはほんの少し照れが混じっていた。
居酒屋でわいわい騒いでいた時よりも、静まり返ったホームの方がよほど緊張感を孕んでいる。
二人きりの空間は、急に距離を意識させる。
笑い声の余韻すら、夜の空気に吸い込まれていくようで、鼓動の音がやけに耳に響いた。
「なんか、二人きりだと変な感じですね」
「普段はみんなと一緒だからな。……いや、別に変ってわけじゃないけど」
朝陽の取り繕うような言葉が、逆に不自然さを際立たせる。
けれど、それでも会話を続けようとするその必死さが、かえって互いの胸をくすぐっていた。
沈黙が降りるたびに、夜の空気はじわじわと重く、そして甘くなっていく。
まるで見えない糸が二人を縛っているみたいに。
ベンチの上、蛍光灯の光が白々しく二人の影を落としている。
遠くで電車が走る音が響いても、このホームだけはぽっかりと時間が止まったかのようだった。
呼吸のリズムが重なったり、ずれたりするたびに、心臓が無意味に跳ね上がる。
「朝陽先輩」
「ん?」
「卒業したら、どうするんですか?」
唐突な問いに、朝陽は目を瞬かせる。
一瞬だけ真顔になって、すぐに照れ隠しのように笑って肩をすくめた。
「どうするって……社会人になるしかないだろ」
「そういうことじゃなくて。……大学終わったら、みんなバラバラになっちゃうじゃないですか。連絡も減るし、会う機会も少なくなるし」
「まあ……そうだな」
七海は小さく靴先でベンチの下を蹴った。
コツ、コツ、と規則的な音が響き、そのたびに胸のざわめきを誤魔化しているようだった。
目線は下に落ちていて、いつもより少しだけ弱い。
普段なら明るく笑い飛ばす彼女が、今夜だけは本音をこぼしていた。
「……だから、ちょっと寂しい」
「七海が?意外だな」
「何それ。私だって一応、寂しいくらいは思うんですけど」
朝陽は思わず吹き出しそうになり、慌てて横顔を盗み見る。
七海の頬はほんのり赤い。酔いのせいか、本音を隠すためか――その曖昧さが、妙に可笑しくて、そしてどこか愛おしい。
「……七海」
名前を呼ぶ声に、胸が大きく跳ねた。
夜のホームに響いたその響きは、いつもの冗談でも軽口でもない。
鋭く、真っ直ぐで、逃げ場を許さないほどの強さを帯びていた。
七海は肩をびくりと震わせ、反射的に顔を上げた。
そこにあったのは、見慣れた先輩の顔ではなかった。
蛍光灯の白い光を浴びた朝陽の横顔は、どこか幼さを脱ぎ捨て、大人びた影をまとっている。
強い意志を湛えた瞳の光が胸の奥に突き刺さり、息をするのも忘れそうになった。
「な、なんですか?」
声が震えているのは、自分でもわかっていた。
けれど止められない。
心臓が暴れるように打ち、耳の奥で脈打つ鼓動が、世界を支配するように大きく響いていた。
口から出た言葉はか細く、頼りない。
朝陽はしばらく黙ったまま、唇をきゅっと結んでいた。
沈黙が不安を煽るのに、目を逸らすことはできなかった。
線路の奥で風が揺れ、遠くに電車の走る音が低く反響する。
その小さな振動でさえ、二人の沈黙を際立たせ、緊張を押し上げていく。
――言おうとしている。
七海は直感で悟った。
今まで笑ってごまかしてきた彼の態度、冗談に紛れ込ませていた視線。
その奥に隠されていた本当の気持ちが、今まさに形になろうとしている。
呼吸が浅くなる。
「次の電車まで2分」という掲示板の数字が視界にちらつき、現実を無情に突きつける。
あと二分。
その短い時間に、二人の未来が決まってしまう――そう思うと、胸がぎゅっと締めつけられた。
朝陽はゆっくりとベンチから立ち上がり、七海の前に向き直った。
ポケットの中でわずかに震える指先をぎゅっと握りしめ、迷いを押し殺すように。
肩の動きひとつからでも、その緊張が伝わってくる。
「七海……俺、ずっと言えなかったことがあるんだ」
低く、けれど揺るぎない響き。
七海は息を呑む。
鼓動が早すぎて、胸の奥が苦しくなる。
「……なんですか、それ」
自分でも驚くほど小さな声しか出なかった。
喉が渇き、声がうまく響かない。
それでも、視線を逸らすことはできなかった。
彼の瞳に縫いとめられてしまう。
朝陽の瞳には、もう迷いがなかった。
冗談めかした笑みも、からかうような色もない。
ただ、まっすぐな想いだけが宿っていた。
「サークルのことも、授業のことも、くだらないことで笑った時間も……全部が俺にとって特別だった。でも、それを先輩と後輩だからって言葉でごまかしてきた」
言葉を継ぐたびに、七海の胸は熱くなる。
気づけば、鞄を抱く腕にぎゅっと力がこもっていた。
――もう、わかってしまっている。
次に来る言葉が何なのかを。
掲示板の表示が「次の電車まで1分」に切り替わる。
無機質な光が点滅し、秒針のように二人を追い詰めていく。
数字のひとつひとつが、心臓の鼓動と重なり、息を詰まらせた。
七海はごくりと喉を鳴らした。
その瞬間、朝陽がわずかに前に出る。
「七海――」
名前を呼ぶ声は、もう告白の直前だった。
「七海のことが好きだ。……付き合ってほしい」
その言葉が落ちた瞬間、世界の色が変わった。
蛍光灯の白い光も、夜風の冷たさも、遠ざかっていく。
七海の耳に残ったのは、ただ一つ――彼の声だけだった。
胸の奥が一気に熱を帯びる。
頬を伝うものがあって、指先で触れる前に気づいた。
涙だ。止めようと思っても止まらない。
視界がにじみ、彼の姿が揺れる。
「……はい」
かすかな声。けれど、それが七海にとっての精一杯だった。
たった一文字に、三年間の想いと今の答えを込めて。
滲んだ視界の中で見た朝陽の顔は、驚きと安堵と、そして少しの照れが入り混じっていた。
彼もまた、必死にこの一言を待っていたのだとわかる。
その時――
《まもなく、電車が到着いたします》
機械的なアナウンスがホームに響いた。
レールの振動がじわじわと床を伝い、近づいてくる光が二人を照らす。
風が強まり、髪が揺れる。
七海は深呼吸をして、胸の奥でそっと呟いた。
――この十分で、私たちの未来が決まった。
電車が滑り込む音と同時に、二人は並んで立ち上がる。
触れ合った指先は、もう離れないようにと願うかのように、自然と重なった。
その温もりは、これから先を共に歩む約束のように確かで、夜風に負けない力強さを秘めていた。
居酒屋を出たあと、酔いと眠気を抱えながら二人で駅まで駆け込んだものの――無情にも目の前で閉じられるドア。
ガタンと響いた金属音と、発車ベルの余韻だけが、取り残された二人の耳に残った。
しんとしたホームに、急に二人きりの呼吸音だけが残される。
「……あーあ、やっちゃった」
肩で息をしながら七海が小さく笑った。
その声は少し上ずっていて、冗談めかしているのに、どこか本気の照れ隠しが混じっていた。
頬は赤く、前髪が少し額に張り付いている。
居酒屋の照明よりも冷たい蛍光灯の下で、その表情は不思議と幼くも、大人びても見えた。
照れと困惑が入り混じった、甘いのか苦いのか判別できない色をしていた。
足元には、もう誰もいないホーム。
さっきまで賑やかだったはずなのに、今は線十路の向こうの暗闇が広がるだけだ。
電光掲示板に表示される「次の電車まで10分」という無機質な文字が、この夜の行き先をあっさりと決めてしまっていた。
たった十分。けれど、今の二人には長いようで短い、不思議な重みを持っていた。
「卒業間近で、こんな時間まで残ってるなんてさ。最後の最後まで学生っぽいよな」
苦笑しながら朝陽はベンチに腰を下ろす。
冷たい金属の背もたれに寄りかかると、どこか心地悪いはずなのに、隣に七海が座るとその冷たささえ気にならなくなった。
七海も少し間を置いてから、鞄を膝に抱えるようにして、ちょこんと横に腰を下ろす。
ベンチのひんやりとした感触と、夜風が肌を撫でる冷たさが重なり合い、背筋をすうっと撫でる。
けれど、その距離が不思議と落ち着きを与えていた。
「こうやって二人で終電待つの、初めてかも」
「だな。……まあ、最後の学生生活、思い出にはなるんじゃない?」
朝陽は、どこかぎこちなく笑った。
七海もつられて笑うけれど、その笑みにはほんの少し照れが混じっていた。
居酒屋でわいわい騒いでいた時よりも、静まり返ったホームの方がよほど緊張感を孕んでいる。
二人きりの空間は、急に距離を意識させる。
笑い声の余韻すら、夜の空気に吸い込まれていくようで、鼓動の音がやけに耳に響いた。
「なんか、二人きりだと変な感じですね」
「普段はみんなと一緒だからな。……いや、別に変ってわけじゃないけど」
朝陽の取り繕うような言葉が、逆に不自然さを際立たせる。
けれど、それでも会話を続けようとするその必死さが、かえって互いの胸をくすぐっていた。
沈黙が降りるたびに、夜の空気はじわじわと重く、そして甘くなっていく。
まるで見えない糸が二人を縛っているみたいに。
ベンチの上、蛍光灯の光が白々しく二人の影を落としている。
遠くで電車が走る音が響いても、このホームだけはぽっかりと時間が止まったかのようだった。
呼吸のリズムが重なったり、ずれたりするたびに、心臓が無意味に跳ね上がる。
「朝陽先輩」
「ん?」
「卒業したら、どうするんですか?」
唐突な問いに、朝陽は目を瞬かせる。
一瞬だけ真顔になって、すぐに照れ隠しのように笑って肩をすくめた。
「どうするって……社会人になるしかないだろ」
「そういうことじゃなくて。……大学終わったら、みんなバラバラになっちゃうじゃないですか。連絡も減るし、会う機会も少なくなるし」
「まあ……そうだな」
七海は小さく靴先でベンチの下を蹴った。
コツ、コツ、と規則的な音が響き、そのたびに胸のざわめきを誤魔化しているようだった。
目線は下に落ちていて、いつもより少しだけ弱い。
普段なら明るく笑い飛ばす彼女が、今夜だけは本音をこぼしていた。
「……だから、ちょっと寂しい」
「七海が?意外だな」
「何それ。私だって一応、寂しいくらいは思うんですけど」
朝陽は思わず吹き出しそうになり、慌てて横顔を盗み見る。
七海の頬はほんのり赤い。酔いのせいか、本音を隠すためか――その曖昧さが、妙に可笑しくて、そしてどこか愛おしい。
「……七海」
名前を呼ぶ声に、胸が大きく跳ねた。
夜のホームに響いたその響きは、いつもの冗談でも軽口でもない。
鋭く、真っ直ぐで、逃げ場を許さないほどの強さを帯びていた。
七海は肩をびくりと震わせ、反射的に顔を上げた。
そこにあったのは、見慣れた先輩の顔ではなかった。
蛍光灯の白い光を浴びた朝陽の横顔は、どこか幼さを脱ぎ捨て、大人びた影をまとっている。
強い意志を湛えた瞳の光が胸の奥に突き刺さり、息をするのも忘れそうになった。
「な、なんですか?」
声が震えているのは、自分でもわかっていた。
けれど止められない。
心臓が暴れるように打ち、耳の奥で脈打つ鼓動が、世界を支配するように大きく響いていた。
口から出た言葉はか細く、頼りない。
朝陽はしばらく黙ったまま、唇をきゅっと結んでいた。
沈黙が不安を煽るのに、目を逸らすことはできなかった。
線路の奥で風が揺れ、遠くに電車の走る音が低く反響する。
その小さな振動でさえ、二人の沈黙を際立たせ、緊張を押し上げていく。
――言おうとしている。
七海は直感で悟った。
今まで笑ってごまかしてきた彼の態度、冗談に紛れ込ませていた視線。
その奥に隠されていた本当の気持ちが、今まさに形になろうとしている。
呼吸が浅くなる。
「次の電車まで2分」という掲示板の数字が視界にちらつき、現実を無情に突きつける。
あと二分。
その短い時間に、二人の未来が決まってしまう――そう思うと、胸がぎゅっと締めつけられた。
朝陽はゆっくりとベンチから立ち上がり、七海の前に向き直った。
ポケットの中でわずかに震える指先をぎゅっと握りしめ、迷いを押し殺すように。
肩の動きひとつからでも、その緊張が伝わってくる。
「七海……俺、ずっと言えなかったことがあるんだ」
低く、けれど揺るぎない響き。
七海は息を呑む。
鼓動が早すぎて、胸の奥が苦しくなる。
「……なんですか、それ」
自分でも驚くほど小さな声しか出なかった。
喉が渇き、声がうまく響かない。
それでも、視線を逸らすことはできなかった。
彼の瞳に縫いとめられてしまう。
朝陽の瞳には、もう迷いがなかった。
冗談めかした笑みも、からかうような色もない。
ただ、まっすぐな想いだけが宿っていた。
「サークルのことも、授業のことも、くだらないことで笑った時間も……全部が俺にとって特別だった。でも、それを先輩と後輩だからって言葉でごまかしてきた」
言葉を継ぐたびに、七海の胸は熱くなる。
気づけば、鞄を抱く腕にぎゅっと力がこもっていた。
――もう、わかってしまっている。
次に来る言葉が何なのかを。
掲示板の表示が「次の電車まで1分」に切り替わる。
無機質な光が点滅し、秒針のように二人を追い詰めていく。
数字のひとつひとつが、心臓の鼓動と重なり、息を詰まらせた。
七海はごくりと喉を鳴らした。
その瞬間、朝陽がわずかに前に出る。
「七海――」
名前を呼ぶ声は、もう告白の直前だった。
「七海のことが好きだ。……付き合ってほしい」
その言葉が落ちた瞬間、世界の色が変わった。
蛍光灯の白い光も、夜風の冷たさも、遠ざかっていく。
七海の耳に残ったのは、ただ一つ――彼の声だけだった。
胸の奥が一気に熱を帯びる。
頬を伝うものがあって、指先で触れる前に気づいた。
涙だ。止めようと思っても止まらない。
視界がにじみ、彼の姿が揺れる。
「……はい」
かすかな声。けれど、それが七海にとっての精一杯だった。
たった一文字に、三年間の想いと今の答えを込めて。
滲んだ視界の中で見た朝陽の顔は、驚きと安堵と、そして少しの照れが入り混じっていた。
彼もまた、必死にこの一言を待っていたのだとわかる。
その時――
《まもなく、電車が到着いたします》
機械的なアナウンスがホームに響いた。
レールの振動がじわじわと床を伝い、近づいてくる光が二人を照らす。
風が強まり、髪が揺れる。
七海は深呼吸をして、胸の奥でそっと呟いた。
――この十分で、私たちの未来が決まった。
電車が滑り込む音と同時に、二人は並んで立ち上がる。
触れ合った指先は、もう離れないようにと願うかのように、自然と重なった。
その温もりは、これから先を共に歩む約束のように確かで、夜風に負けない力強さを秘めていた。