恋の分岐点
十五分間の図書館
図書館の中は、静寂が支配していた。
午後の柔らかな光が大きな窓から差し込み、整然と並ぶ本棚に影を落としている。
七海は貸出カウンターを離れ、返却された本を抱えて書架へ向かった。背表紙を指でなぞりながら、定位置に戻していく作業は、彼女にとってすっかり日常の一部になっていた。
文学の棚の前で立ち止まる。最後の一冊を戻そうとした瞬間、別の手が同じ棚に伸びてきた。
指先がふいに触れ合う。
「っ……」
七海は思わず手を引っ込めた。
そして――
「……朝陽?」
驚き混じりの声が、自然とこぼれた。
顔を上げると、そこにいたのは懐かしい横顔だった。
「久しぶりだな」
落ち着いた声。わずかに照れくさそうに笑う。
「……どうして、ここに?」
七海の胸が小さく跳ねる。まさか図書館で再会するなんて想像していなかった。
「最近転職して、地元に戻ってきたんだ。で、今日たまたま寄ってみたら……」
朝陽は目の前の小説を掲げて見せた。
「同じ本を手に取るなんて、偶然だよな」
「ほんとに……」
七海は思わず笑ってしまった。緊張と驚きでぎこちない笑みだったけれど、それでも懐かしさが心に広がる。
「元気だった?」
「うん、まあね。七海はどう?広告代理店辞めたあと、やっぱり地元に戻ったの?」
「そうなの。大学まで地元だったし、都会にいるよりやっぱりこっちが性に合ってるみたいで。まあ、いろいろあったけど……今はここで落ち着いてる」
短い会話のはずなのに、言葉の端々に過去が滲む。二人の間に流れる空気は、数年分の時間を飛び越えて、あの頃の延長線に戻ったかのようだった。
七海はそっと問いかけた。
「……偶然だけど、なんだか不思議だね」
「そうだな。まるで、本が呼び寄せたみたいだ」
その言葉に、七海の心臓が再び大きく跳ねた。
静かな図書館の空気が、ふと重たく感じられた。
七海は手にしていた本を慌てて棚に戻し、軽く息を整える。
「……ここじゃ、落ち着いて話せないね」
「確かに。外に出るか?」
朝陽がそう言って笑った。その自然さが昔と同じで、七海は胸の奥が少しざわついた。
「もう少しで仕事が終わるから、ちょっと待ってて」
二人は並んで自動ドアを抜けた。
夕暮れの風が頬を撫で、図書館前の小さな広場に柔らかな光を落とす。
「へえ……ここの図書館、こんなに綺麗だったんだな」
朝陽が空を仰ぎながらつぶやく。
「二年前に改装したの。私が転職したのもちょうどその頃で」
「なるほど。じゃあ、ここで働いて二年か」
「うん。最初は慣れなくて大変だったけど……今はこの静けさが心地いいかな」
七海はベンチに腰を下ろす。朝陽も隣に座り、少しの沈黙が訪れた。
聞きたいことは山ほどあるのに、どれから切り出せばいいのかわからない。
先に口を開いたのは、朝陽だった。
「七海、全然変わってないな」
「え、そうかな?私、もう二十七だよ」
「年齢の話じゃなくてさ。雰囲気っていうか……落ち着いてるのに、笑ったときだけ急に明るくなるとこ」
「……そんなこと言って、またからかって」
「いやいや、真面目に言ってる」
視線が合った。
懐かしい温度が一気に胸に広がって、七海は思わず目を逸らす。
「朝陽のほうこそ……昔よりずっと大人っぽくなったよ」
「仕事でだいぶ鍛えられたからな。都会にいたけど、結局は地元に戻りたくなって」
「戻ってきて……どう?」
「まだ慣れない。でも、こうして七海に会えただけで、戻ってきた意味ある気がする」
不意打ちの言葉に、心臓が跳ね上がる。
言葉に詰まった七海を見て、朝陽が小さく笑った。
「……驚かせたか?」
「……ちょっとだけ」
二人は立ち上がり、並んで歩き出す。
過去と現在が重なり合うような、不思議な時間が始まっていた。
夜の空気は、昼間よりも澄んでいて、肌に触れるたびに心を落ち着かせる。
七海と朝陽は、図書館から少し離れた並木道を歩いていた。
街灯の下、二人の影が寄り添うように伸びる。
「この辺り……昔よく通ったよね」
七海がふとつぶやく。
「覚えてる。サークル終わりに寄り道して、コンビニでアイス買ったりしてさ」
「懐かしい……。あの頃、なんでもない時間がすごく特別に思えた」
「……今もだよ」
足を止めた朝陽の声は、驚くほどまっすぐだった。
七海の心臓が跳ねる。
「え……」
「今日ここで会ったの、偶然だと思うけど……俺にとっては、再スタートみたいに感じた」
七海は言葉を失い、夜風に身を委ねる。
けれど、胸の奥から自然に言葉がこぼれ落ちた。
「……私も。ここで会えて、ほんとによかったって思ってる」
二人の間に、しばし沈黙が落ちる。
でもその沈黙は気まずさではなく、どこか温かいものだった。
やがて、朝陽が小さく笑って言う。
「七海って、やっぱりずるいな」
「ずるい?」
「そうやって素直に言われたら、期待しちゃうだろ」
「……期待しても、いいかもね」
冗談めかして言ったつもりだったのに、声は震えていた。
その瞬間、彼の手がそっと差し伸べられる。
「……触れてもいい?」
七海は目を伏せ、息を整える。
答えは――決まっていた。
「……うん」
指先が重なる。
あたたかさが静かに広がり、胸の鼓動が早まっていく。
「……変わらないな。七海の手」
「朝陽のも」
二人は笑い合った。
その笑みは、かつてと同じでありながら、今の自分たちだけが持てるものだった。
二人の歩幅は、もう揃っていた。
「最近はどうなんだ?」
朝陽が先に切り出した。
「仕事は、まあそれなり。図書館は静かだし、人間関係も落ち着いてる。……生活は単調かな。仕事して、帰って、本読んで寝て、の繰り返し」
言いながら七海は小さく肩をすくめ、どこか自嘲気味に笑った。
「七海らしいな」
「褒めてないでしょ、それ」
「いや、安定してるって意味だよ。俺なんか、転職したばっかりでバタバタしてる。実家に戻ったら楽かと思ったけど……逆に親に干渉されるし」
二人の笑い声が、夜の広場にふわりと広がっていった。緊張をほどくような、どこか懐かしい響きだった。
けれど、その余韻が消えたあと、七海の瞳がわずかに陰を帯びた。
「……あの時、本当は寂しかっただけ」
朝陽の目が大きく揺れる。
短い言葉が、心の奥にしまっていた記憶を呼び覚ました。別れを告げた夜の気まずさ、背を向けたまま残した言葉の重み。
「俺も……」
朝陽は低い声で続ける。
「もっと頼っていればよかった」
七海は目を伏せた。
心臓が痛いほど鳴っている。久しぶりの会話なのに、こんなにも簡単に過去がほどけてしまうなんて。
互いに未練がまだ残っている――その事実を、もう誤魔化せなかった。
「……頼ってもらえなかったの、すごく苦しかったんだ」
声は小さく震えていた。
朝陽は黙って七海の横顔を見つめる。
街灯の光に照らされたその瞳には、今も消えない寂しさが宿っていた。
「俺だって、本当は分かってたんだよ」
しばらくして、朝陽が低く答える。
「ただ、自分に余裕がなかった。仕事もうまくいってなくて、焦ってて……そのくせ、七海の前では強がってばかりで」
七海は顔を上げる。
「……そんなこと、一言も言ってくれなかったじゃない」
「言えなかったんだ。弱い自分を見せたら、嫌われると思って」
その言葉に、七海は息を呑む。
互いに本音を言えなかったことが、すれ違いを生んでしまったのだ。
「……ばか」
小さな声が、夜に溶けていく。
「弱いところを見せてくれたほうが、きっと安心できたのに」
朝陽は目を伏せ、そして苦笑した。
「そうか……。ほんと、俺は遠回りばっかりだな」
七海も思わず微笑んだ。
「私も。大人ぶってばかりで、素直になれなかった」
二人の声が重なった瞬間、時間がふっと止まったように感じた。
互いの胸の奥にまだ残っている温度。それはもう、否定しようのないものだった。
夜空には雲が流れ、街灯の下だけが小さな舞台のように照らされていた。
七海と朝陽は並んだまま、どちらもすぐには言葉を継げなかった。
沈黙を破ったのは、朝陽だった。
「……七海。もし、あの時に戻れるなら……やり直したいと思うか?」
七海は少し考え、ゆっくり首を横に振る。
「戻りたいとは思わない。だって、あの別れがあったから、私は今ここにいるんだもの」
「……そうだな」
朝陽はわずかに笑った。
「でも、未練は残ってる」
「うん。私も」
七海は素直に頷いた。胸の奥でずっとしまい込んできた感情を、ようやく言葉にできた気がした。
二人は同時に夜空を仰ぐ。
星は少なかったけれど、どこかで確かに瞬いている。
「七海」
「なに?」
「また会える?」
それは思っていたよりもずっと素直な声だった。
冗談でも軽口でもなく、本気の問いかけ。
言葉のひとつひとつが夜気を震わせ、七海の心にまっすぐに届いた。
胸が詰まり、七海は一瞬だけ視線を落とした。
言葉にしてしまえば、また何かが変わってしまう気がして――怖かった。
けれど、その沈黙こそが答えを求められているように思えて。
「……うん」
小さな声が、夜風に乗って広がった。
自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。
その瞬間、朝陽の表情がふっと和らぎ、安堵の笑みが浮かぶ。
七海もつられるように微笑んだ。
視線が交わり、わずかに息が重なる。
二人の距離は、確かに少しだけ縮まっていた。
夜道を歩く二人の靴音が、住宅街の静けさに小さく響いていた。
電車の最終はとうに過ぎ、街は眠りに落ちている。
それなのに、二人の胸の鼓動だけは妙に騒がしく、歩調を乱す。
「……なんか、変な感じだな」
朝陽がぽつりとこぼす。
「変って?」
七海が首をかしげる。
「昔はさ、毎日のように顔を合わせてたのに。今は、こんなふうに会うだけで胸がざわつく」
少し照れくさそうに笑う彼の声に、七海の足が止まる。
胸の奥に残っていた感覚が、同じだと気づいてしまったから。
「……私もだよ」
声に出した瞬間、心臓が跳ねるのが分かった。
朝陽が振り返り、街灯に照らされた瞳が驚きと安堵を同時に宿す。
「七海……」
ただ名前を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなる。
言葉の続きを待つ自分がいることに気づき、七海は小さく笑った。
「また会えるかどうかなんて、わからないと思ってた」
「俺も。でも――もう一度ちゃんと話せて、良かった」
二人の間に沈黙が訪れる。
しかし、それは気まずさではなく、むしろ心地よい静けさだった。
夜風が頬を撫で、冷たさを指先に残す。
「……今度は、図書館じゃなくてもいいな」
朝陽がふっと笑い、続ける。
「もっと普通に、どこかで。お茶でも、散歩でも」
七海は少し迷いながらも、静かに頷いた。
「うん。そうだね」
ほんの小さなやりとりなのに、心があたたかくほどけていく。
まるで時間がゆっくりと巻き戻り、あの頃の距離に近づいていくみたいだった。
駅前のロータリーに着くと、互いに手を振り、別々の方向へ歩き出す。
背を向けても、心はまだ隣にいるような感覚が残っていた。
七海は小さく息を吐き、夜空を見上げる。
星はわずかしか見えなかったが、それでも確かに瞬いていた。
――たった十五分の再会で、心が動き出した
その実感は、まるで小さな灯火のように、七海の中でゆっくりと燃え広がっていった。
午後の柔らかな光が大きな窓から差し込み、整然と並ぶ本棚に影を落としている。
七海は貸出カウンターを離れ、返却された本を抱えて書架へ向かった。背表紙を指でなぞりながら、定位置に戻していく作業は、彼女にとってすっかり日常の一部になっていた。
文学の棚の前で立ち止まる。最後の一冊を戻そうとした瞬間、別の手が同じ棚に伸びてきた。
指先がふいに触れ合う。
「っ……」
七海は思わず手を引っ込めた。
そして――
「……朝陽?」
驚き混じりの声が、自然とこぼれた。
顔を上げると、そこにいたのは懐かしい横顔だった。
「久しぶりだな」
落ち着いた声。わずかに照れくさそうに笑う。
「……どうして、ここに?」
七海の胸が小さく跳ねる。まさか図書館で再会するなんて想像していなかった。
「最近転職して、地元に戻ってきたんだ。で、今日たまたま寄ってみたら……」
朝陽は目の前の小説を掲げて見せた。
「同じ本を手に取るなんて、偶然だよな」
「ほんとに……」
七海は思わず笑ってしまった。緊張と驚きでぎこちない笑みだったけれど、それでも懐かしさが心に広がる。
「元気だった?」
「うん、まあね。七海はどう?広告代理店辞めたあと、やっぱり地元に戻ったの?」
「そうなの。大学まで地元だったし、都会にいるよりやっぱりこっちが性に合ってるみたいで。まあ、いろいろあったけど……今はここで落ち着いてる」
短い会話のはずなのに、言葉の端々に過去が滲む。二人の間に流れる空気は、数年分の時間を飛び越えて、あの頃の延長線に戻ったかのようだった。
七海はそっと問いかけた。
「……偶然だけど、なんだか不思議だね」
「そうだな。まるで、本が呼び寄せたみたいだ」
その言葉に、七海の心臓が再び大きく跳ねた。
静かな図書館の空気が、ふと重たく感じられた。
七海は手にしていた本を慌てて棚に戻し、軽く息を整える。
「……ここじゃ、落ち着いて話せないね」
「確かに。外に出るか?」
朝陽がそう言って笑った。その自然さが昔と同じで、七海は胸の奥が少しざわついた。
「もう少しで仕事が終わるから、ちょっと待ってて」
二人は並んで自動ドアを抜けた。
夕暮れの風が頬を撫で、図書館前の小さな広場に柔らかな光を落とす。
「へえ……ここの図書館、こんなに綺麗だったんだな」
朝陽が空を仰ぎながらつぶやく。
「二年前に改装したの。私が転職したのもちょうどその頃で」
「なるほど。じゃあ、ここで働いて二年か」
「うん。最初は慣れなくて大変だったけど……今はこの静けさが心地いいかな」
七海はベンチに腰を下ろす。朝陽も隣に座り、少しの沈黙が訪れた。
聞きたいことは山ほどあるのに、どれから切り出せばいいのかわからない。
先に口を開いたのは、朝陽だった。
「七海、全然変わってないな」
「え、そうかな?私、もう二十七だよ」
「年齢の話じゃなくてさ。雰囲気っていうか……落ち着いてるのに、笑ったときだけ急に明るくなるとこ」
「……そんなこと言って、またからかって」
「いやいや、真面目に言ってる」
視線が合った。
懐かしい温度が一気に胸に広がって、七海は思わず目を逸らす。
「朝陽のほうこそ……昔よりずっと大人っぽくなったよ」
「仕事でだいぶ鍛えられたからな。都会にいたけど、結局は地元に戻りたくなって」
「戻ってきて……どう?」
「まだ慣れない。でも、こうして七海に会えただけで、戻ってきた意味ある気がする」
不意打ちの言葉に、心臓が跳ね上がる。
言葉に詰まった七海を見て、朝陽が小さく笑った。
「……驚かせたか?」
「……ちょっとだけ」
二人は立ち上がり、並んで歩き出す。
過去と現在が重なり合うような、不思議な時間が始まっていた。
夜の空気は、昼間よりも澄んでいて、肌に触れるたびに心を落ち着かせる。
七海と朝陽は、図書館から少し離れた並木道を歩いていた。
街灯の下、二人の影が寄り添うように伸びる。
「この辺り……昔よく通ったよね」
七海がふとつぶやく。
「覚えてる。サークル終わりに寄り道して、コンビニでアイス買ったりしてさ」
「懐かしい……。あの頃、なんでもない時間がすごく特別に思えた」
「……今もだよ」
足を止めた朝陽の声は、驚くほどまっすぐだった。
七海の心臓が跳ねる。
「え……」
「今日ここで会ったの、偶然だと思うけど……俺にとっては、再スタートみたいに感じた」
七海は言葉を失い、夜風に身を委ねる。
けれど、胸の奥から自然に言葉がこぼれ落ちた。
「……私も。ここで会えて、ほんとによかったって思ってる」
二人の間に、しばし沈黙が落ちる。
でもその沈黙は気まずさではなく、どこか温かいものだった。
やがて、朝陽が小さく笑って言う。
「七海って、やっぱりずるいな」
「ずるい?」
「そうやって素直に言われたら、期待しちゃうだろ」
「……期待しても、いいかもね」
冗談めかして言ったつもりだったのに、声は震えていた。
その瞬間、彼の手がそっと差し伸べられる。
「……触れてもいい?」
七海は目を伏せ、息を整える。
答えは――決まっていた。
「……うん」
指先が重なる。
あたたかさが静かに広がり、胸の鼓動が早まっていく。
「……変わらないな。七海の手」
「朝陽のも」
二人は笑い合った。
その笑みは、かつてと同じでありながら、今の自分たちだけが持てるものだった。
二人の歩幅は、もう揃っていた。
「最近はどうなんだ?」
朝陽が先に切り出した。
「仕事は、まあそれなり。図書館は静かだし、人間関係も落ち着いてる。……生活は単調かな。仕事して、帰って、本読んで寝て、の繰り返し」
言いながら七海は小さく肩をすくめ、どこか自嘲気味に笑った。
「七海らしいな」
「褒めてないでしょ、それ」
「いや、安定してるって意味だよ。俺なんか、転職したばっかりでバタバタしてる。実家に戻ったら楽かと思ったけど……逆に親に干渉されるし」
二人の笑い声が、夜の広場にふわりと広がっていった。緊張をほどくような、どこか懐かしい響きだった。
けれど、その余韻が消えたあと、七海の瞳がわずかに陰を帯びた。
「……あの時、本当は寂しかっただけ」
朝陽の目が大きく揺れる。
短い言葉が、心の奥にしまっていた記憶を呼び覚ました。別れを告げた夜の気まずさ、背を向けたまま残した言葉の重み。
「俺も……」
朝陽は低い声で続ける。
「もっと頼っていればよかった」
七海は目を伏せた。
心臓が痛いほど鳴っている。久しぶりの会話なのに、こんなにも簡単に過去がほどけてしまうなんて。
互いに未練がまだ残っている――その事実を、もう誤魔化せなかった。
「……頼ってもらえなかったの、すごく苦しかったんだ」
声は小さく震えていた。
朝陽は黙って七海の横顔を見つめる。
街灯の光に照らされたその瞳には、今も消えない寂しさが宿っていた。
「俺だって、本当は分かってたんだよ」
しばらくして、朝陽が低く答える。
「ただ、自分に余裕がなかった。仕事もうまくいってなくて、焦ってて……そのくせ、七海の前では強がってばかりで」
七海は顔を上げる。
「……そんなこと、一言も言ってくれなかったじゃない」
「言えなかったんだ。弱い自分を見せたら、嫌われると思って」
その言葉に、七海は息を呑む。
互いに本音を言えなかったことが、すれ違いを生んでしまったのだ。
「……ばか」
小さな声が、夜に溶けていく。
「弱いところを見せてくれたほうが、きっと安心できたのに」
朝陽は目を伏せ、そして苦笑した。
「そうか……。ほんと、俺は遠回りばっかりだな」
七海も思わず微笑んだ。
「私も。大人ぶってばかりで、素直になれなかった」
二人の声が重なった瞬間、時間がふっと止まったように感じた。
互いの胸の奥にまだ残っている温度。それはもう、否定しようのないものだった。
夜空には雲が流れ、街灯の下だけが小さな舞台のように照らされていた。
七海と朝陽は並んだまま、どちらもすぐには言葉を継げなかった。
沈黙を破ったのは、朝陽だった。
「……七海。もし、あの時に戻れるなら……やり直したいと思うか?」
七海は少し考え、ゆっくり首を横に振る。
「戻りたいとは思わない。だって、あの別れがあったから、私は今ここにいるんだもの」
「……そうだな」
朝陽はわずかに笑った。
「でも、未練は残ってる」
「うん。私も」
七海は素直に頷いた。胸の奥でずっとしまい込んできた感情を、ようやく言葉にできた気がした。
二人は同時に夜空を仰ぐ。
星は少なかったけれど、どこかで確かに瞬いている。
「七海」
「なに?」
「また会える?」
それは思っていたよりもずっと素直な声だった。
冗談でも軽口でもなく、本気の問いかけ。
言葉のひとつひとつが夜気を震わせ、七海の心にまっすぐに届いた。
胸が詰まり、七海は一瞬だけ視線を落とした。
言葉にしてしまえば、また何かが変わってしまう気がして――怖かった。
けれど、その沈黙こそが答えを求められているように思えて。
「……うん」
小さな声が、夜風に乗って広がった。
自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。
その瞬間、朝陽の表情がふっと和らぎ、安堵の笑みが浮かぶ。
七海もつられるように微笑んだ。
視線が交わり、わずかに息が重なる。
二人の距離は、確かに少しだけ縮まっていた。
夜道を歩く二人の靴音が、住宅街の静けさに小さく響いていた。
電車の最終はとうに過ぎ、街は眠りに落ちている。
それなのに、二人の胸の鼓動だけは妙に騒がしく、歩調を乱す。
「……なんか、変な感じだな」
朝陽がぽつりとこぼす。
「変って?」
七海が首をかしげる。
「昔はさ、毎日のように顔を合わせてたのに。今は、こんなふうに会うだけで胸がざわつく」
少し照れくさそうに笑う彼の声に、七海の足が止まる。
胸の奥に残っていた感覚が、同じだと気づいてしまったから。
「……私もだよ」
声に出した瞬間、心臓が跳ねるのが分かった。
朝陽が振り返り、街灯に照らされた瞳が驚きと安堵を同時に宿す。
「七海……」
ただ名前を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなる。
言葉の続きを待つ自分がいることに気づき、七海は小さく笑った。
「また会えるかどうかなんて、わからないと思ってた」
「俺も。でも――もう一度ちゃんと話せて、良かった」
二人の間に沈黙が訪れる。
しかし、それは気まずさではなく、むしろ心地よい静けさだった。
夜風が頬を撫で、冷たさを指先に残す。
「……今度は、図書館じゃなくてもいいな」
朝陽がふっと笑い、続ける。
「もっと普通に、どこかで。お茶でも、散歩でも」
七海は少し迷いながらも、静かに頷いた。
「うん。そうだね」
ほんの小さなやりとりなのに、心があたたかくほどけていく。
まるで時間がゆっくりと巻き戻り、あの頃の距離に近づいていくみたいだった。
駅前のロータリーに着くと、互いに手を振り、別々の方向へ歩き出す。
背を向けても、心はまだ隣にいるような感覚が残っていた。
七海は小さく息を吐き、夜空を見上げる。
星はわずかしか見えなかったが、それでも確かに瞬いていた。
――たった十五分の再会で、心が動き出した
その実感は、まるで小さな灯火のように、七海の中でゆっくりと燃え広がっていった。