恋の分岐点

八分間のエレベーター停止

夜更けのオフィスビル。
一日の喧噪を終えたフロアには、蛍光灯の白々しい光と、空調の低い唸り声だけが残っていた。
コピー機のインジケーターは無機質に点滅し、机の上に置き去りにされた書類の山は、まるで人間の慌ただしさを嘲笑うかのように沈黙している。

残業を終え、ようやくフロアを後にした七海は、重い足取りでエレベーターに乗り込んだ。

「……やっと終わった」

かすかな声は自分にしか聞こえない。
吐き出された溜息が、狭い箱の壁に反響して、さらに自分を追い詰めるようだった。

広告代理店に勤めてもう三年。
慣れているはずの業務も、今日はひどく堪えた。クライアントからの無茶な修正依頼、上司からの突発的な差し戻し、社内調整で走り回った挙句、気づけば日付が変わる寸前。
仕事に忙殺されるのは当たり前だと諦めていたが、心と体に残る疲労は、やはりごまかせなかった。

ボタンを押して壁に背を預けたその瞬間、背後から足音が駆け込んできた。

「すみません、失礼します」

滑り込んできたのは、営業部の朝陽だった。
スーツの袖には皺が寄り、ネクタイはゆるくほどけている。普段は整った見た目で周囲を引っ張る姿ばかり見ていた七海には、その少し乱れた姿が新鮮に映った。

「七海も、こんなに遅くまで?」

「まあね。お互いさま」

短い言葉の応酬のあと、二人は同時に視線を逸らした。
閉ざされた箱の中に、蛍光灯の白い光だけが降り注ぐ。
同じ会社の人間とはいえ、夜更けのエレベーターに二人きり。空気はどこか、言葉にできない重さを孕んでいた。

――その時。

ガタン、と床が揺れた。
軋むような音とともに、エレベーターが急停止する。

「きゃっ……!」

「っ……」

七海は壁に手をつき、思わず息を呑んだ。
照明が一度だけ激しく瞬き、次の瞬間には非常灯だけがぼんやりと箱の中を照らしていた。

「嘘でしょ……!」

「大丈夫、すぐ動くって」

朝陽は落ち着いた声を装ったが、額には汗がにじんでいる。
七海は背を壁に預け、心臓の鼓動を押さえ込むように胸を抱えた。

非常ボタンを押しても、返事はすぐには返ってこない。
静まり返った箱の中で、二人の呼吸だけが響く。

「……閉じ込められるとか、ドラマみたい」

強がり混じりの笑みを浮かべる七海。
朝陽は小さく息を吐き、口角を上げた。

「ドラマなら、ここでロマンチックな展開になるんだろうけど」

「言わないでよ。余計に気まずいから」

言葉を交わした瞬間、互いに視線を逸らす。
けれど、その小さな笑いで、空気の緊張は少し和らいだ。

しばしの沈黙。
その沈黙を破ったのは、七海だった。

「……最近、全然会ってないよね」

抑えているはずの声には、かすかな苛立ちがにじんでいた。
一週間、二週間。気づけば、まともに会う時間がほとんどなくなっていた。
同じ会社で働いているのに、デスクもフロアも違えば、すれ違うだけで終わってしまう。

「仕事が忙しいんだ」

朝陽は低く、淡々と答えた。

「七海だってそうだろ?」

「……忙しいのはわかってるよ。でも」

「でも?」

七海は言葉に詰まる。
わかっている。彼もまた責任ある立場で、時間に追われ、余裕がないことは。
だけど、わかっているからといって、気持ちが晴れるわけじゃない。

「会えないことと、会おうとしないことって、違うでしょ」

その一言で、朝陽の目がわずかに鋭くなる。

「会おうとしてない、って言いたいのか?」

「だって、実際そうじゃない」

「違う。俺だって……」

声が少し強くなった瞬間、二人の間の空気が揺れた。
七海は視線を落とした。

「……もう少し、気にかけてくれてもいいんじゃない?」

「俺だって、気にしてる」

「ほんとに?」

思わず声が大きくなり、二人は同時に息を飲み、声を落とした。
だが、もう止まらない。
溜め込んでいた小さな誤解や苛立ちが、次々に顔を出していく。

「ほんとだよ!」

朝陽の声が少し強く響いた。
その言葉に、七海の胸の奥でチクリと痛みが走る。

「……信じられない」

「どうして?」

「だって、忙しいのはわかるけど……LINEだって、ほとんど返ってこないじゃん」

「返してるだろ。スタンプとか、一言くらいは」

「それが問題なの!ちゃんと話してるって感じが全然しないの!」

七海の声は、知らず知らずのうちに高ぶっていた。

「俺だって一日中、電話と会議で潰れてるんだ。帰ったらもう、頭が回らなくて……」

「じゃあ、私には愚痴の一つも言えないの?」

「言ったら迷惑に思うだろ?」

一瞬、空気が固まる。
七海は呆然と彼を見つめた。
朝陽自身も、言葉を口にした瞬間に後悔していた。

「……迷惑って、何それ」

「ちがう、そういう意味じゃない」

「じゃあどういう意味?」

「……君だって疲れてるから。俺まで弱音吐いたら、余計しんどいだろうって」

説明しようとする声は、どこか空回りしていた。
七海はかすかに笑った。けれど、その笑みは寂しさを隠すためのものだった。

「気を使ってたってこと?」

「……そうだ」

「優しさのつもりかもしれないけど、私からしたら遠ざけられてるようにしか思えなかった」

朝陽は言葉を失った。
七海は続ける。

「ねえ、私たちってさ。付き合ってるはずだよね?でも最近、同僚より遠い気がする」

「……」

「こんなふうに、ちょっと話すだけでぶつかってばっかり。……このままじゃ、ほんとに無理かも」

その一言は、静かなエレベーターの中でやけに重く響いた。
朝陽は拳を握りしめたまま、俯いて何も言えなかった。

時間にすれば数分。
けれど二人にとっては、永遠に思えるほど長い沈黙が流れていった。

――どうしてこうなるんだろう

ほんの小さな不満を口にしただけのはずだった。
「会ってないね」――それだけで、どうしてこんなに傷つけ合う言葉ばかり出てしまうのか。

七海は心の中で呟いた。

――このままじゃ、ほんとに……終わっちゃうかも

そのとき、朝陽がゆっくりと顔を上げた。
いつもの落ち着いた表情はなく、どこか迷子のような目をしていた。

「……七海」

「……なに」

「ごめん」

短い言葉。
それだけで、胸の奥が少しざわついた。

「……もう、別れようか」

短い一言。
抑揚もなく、淡々とした口調。
けれど七海の耳には、鋭利な刃物のように突き刺さった。

「……っ」

喉が詰まり、声が出ない。
返事をしようと口を開いても、言葉は霧散して消えていく。
胸の奥に積み上げてきた思いが、一瞬にして崩れ落ちる音が、確かに自分の中で響いた。

涙が込み上げ、視界がにじむ。
でも、ここで泣いたらすべてが壊れてしまう気がして、必死にこらえた。
泣けば弱さを晒す。泣けば「終わり」を受け入れてしまう。
それだけは嫌で、奥歯を噛みしめる。

目を閉じ、深く息を吸う。
しかし震える指先が、それを裏切るように細かく震え続けていた。

「……」

朝陽もそれ以上は言わなかった。
言葉を重ねれば、互いに傷を深めるだけだとわかっていたから。

無言の時間。
エレベーターの壁がやけに近く感じられる。
狭い空間の空気はどんどん薄くなり、七海の呼吸は浅く早くなる。
鼓動の音だけが、やけに大きく響いた。

七海は唇を噛み、必死に涙を堪える。
頬を伝いそうになる雫を、強く瞬きをして押し戻す。

カチリ。
小さな音が響き、エレベーターがわずかに震えた。
そして、ゆっくりと動き出す。

上下に揺れる感覚が、逆に胸を締めつける。
七海も朝陽も、互いを見なかった。
視線を合わせる勇気が、もう残っていなかった。

やがて、軽い電子音とともに扉が開いた。
冷たいビルの空気が流れ込み、蛍光灯の明るさが一気に差し込む。
二人はほぼ同時に歩き出したが、言葉は交わさなかった。

階段へ向かう人の足音、夜勤の清掃員のモップの擦れる音。
そんな些細な雑音が、やけに遠く、そして現実を突きつけてくる。

七海は一歩遅れて朝陽の背を見つめた。
背広の肩は、いつもより小さく、頼りなさげに見えた。
その背中に声をかけたかった。呼び止めたかった。
けれど、声は喉に張り付いたまま出てこなかった。

そして、二人は同じフロアに降りたはずなのに、まるで別々の世界に歩いていくように離れていった。

――たった八分で、私たちは終わってしまった。

足元に響くヒールの音が、夜のビルに寂しく反響する。
涙はまだ落ちていない。
けれど、それ以上に心は静かに崩れ落ちていた。
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