紙片に残る面影
第2章「誤解の記憶」
 夜。
 アパートの狭い部屋に帰りついた結衣は、鞄をソファに置いた途端、その場に崩れるように座り込んだ。
 蛍光灯の白い光が冷たく部屋を照らし、外から聞こえる車の走行音がやけに遠く感じられる。

 目を閉じれば、昼間の光景がまざまざと甦った。
 上司として目の前に現れた悠真。
 名前を呼びそうになった唇を、必死に噛んで抑えた瞬間の苦しさ。
 彼の表情には驚きも動揺もなく、ただ「新しい派遣社員を見た」という程度の色しか浮かんでいなかった。

(……気づかない。やっぱり、私はもう彼の記憶の中にはいないんだ)

 自分で選んだはずの別れなのに、その事実が胸を痛めつける。
 結衣は眼鏡を外し、テーブルに置いた。視界が滲み、ぼんやりとした光景に変わる。そのぼやけた世界の中で、五年前の記憶が少しずつ形を取り始めた。



 あの日も、こんな夕暮れだった。

 期末試験を一週間後に控えた大学のキャンパス。
 人気の少なくなった図書館は静まり返り、ページをめくる音と遠くの時計の針が時を刻む音だけが響いていた。

 夕方六時を回り、窓の外は群青色に染まりつつあった。
 結衣は参考書を抱えて返却ポストへ向かっていた。小走りで廊下を抜けると、角を曲がったところで、人の影が視界に入った。

「……え?」

 そこにいたのは、悠真だった。
 長身の彼のスーツ姿が、非常灯に照らされて輪郭を浮かび上がらせている。
 そしてその胸元に、泣きじゃくるように顔をうずめる女性がいた。

(……美月……?)

 親友の名前を、喉の奥で押し殺す。
 彼女の肩を抱き寄せ、悠真はその背を静かに撫でていた。
 指先が髪を梳くように優しく、慰める仕草そのものだった。

 瞬間、結衣の胸の奥が激しく締めつけられる。

(どうして……どうして悠真が、美月を……)

 頭の中が真っ白になり、参考書を取り落としかけた。
 慌てて抱え直すと同時に、心臓が乱暴に跳ねる。
 体中が熱く、息が苦しい。

「っ……!」

 足が勝手に動いた。
 逃げなきゃ、見てはいけない。
 廊下を駆け抜け、階段を下りる。靴音が乾いた音を響かせ、涙が頬を伝う。

「結衣!」

 背後から声が響いた。
 振り返ると、息を切らした悠真が必死に追ってくる。
 その顔に焦りと切なさが浮かんでいた。

「待ってくれ、誤解だ!」
「誤解……?」

 足を止めた瞬間、涙で視界が揺れる。
 彼の姿が二重に滲み、声だけがやけに鮮明に耳に届く。

「彼女は今、辛いことがあって……俺はただ、落ち着かせようと……」
「抱きしめて……それで言い訳になるの?」
「俺は——」
「聞きたくない!」

 叫ぶように遮った。喉が焼けるように痛む。
 心のどこかで彼を信じたかった。けれど、親友と抱き合う姿が焼きついて離れない。

「……もういい。私たち、終わりにしよう」

 その言葉を口にした瞬間、自分の心臓を自分で切り裂いたような痛みが走った。
 悠真の顔に衝撃が走る。けれど、もう振り返らなかった。
 全力で駆けだし、彼の声を遠ざけた。

「結衣!」

 最後に背中で聞いた声は、今も胸に残っている。



 現在に戻る。
 アパートの静かな部屋で、結衣は枕を抱きしめ、苦しく息を吐いた。

(あれが誤解だったなんて……今さら信じられない。だって、私は確かに見たんだもの。あの光景を)

 けれど同時に、彼の必死な声も思い出す。
 「違う」「誤解だ」
 あの瞳には確かに真剣さが宿っていた。

 指先がまた、テーブルの端をカリカリとこすっていた。
 小さな癖。五年前から変わらない。

(もし彼が気づいてしまったら……? この癖で、私が結衣だって……)

 心臓が早鐘を打つ。
 気づかれてはいけない。けれど、気づいてほしい。
 矛盾する想いに押し潰されながら、結衣は薄暗い部屋でただ目を閉じた。

 止まった時間はまだ動き出さない。
 けれど確かに、心の奥のどこかで、再会の予兆は脈打っていた。
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