その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜
その日以降、会社ではすべてが元通りだった。
メールを確認し、スケジュールを整理し、淡々と業務をこなす日常。
ふと顔を上げると、向かいの席で湊が変わらずキーボードを叩いていた。
(……本当に、普段通り)
 スーツ姿の横顔。淡々とした動作。
まるでこの前のことなどなかったかのように、穏やかな空気を纏っている。
詩乃もいつも通りを装ったけれど、目を合わせるのが怖くて、会話は必要最低限に抑える。
そんな中、上司がふいに言った。

「橘くん、今週の案件、深雪さんとお願いしてもいい?」

時間が一瞬止まった気がした。
顔を上げると、湊と目が合う。
彼は何事もなかったように柔らかくうなずいた。

「はい、大丈夫です」

——けれど、視線の奥に、ほんの一瞬、熱を感じた気がして。
あの日呼ばれた声とともに、見下ろす湊の姿が頭をよぎる。
顔が熱を帯び、視線を逸らす。

「よろしくお願いします、深雪さん」

「うん、よろしく」

(……何を考えてるんだろう、私)
「一度きり」だと決めたはずなのに。
彼の言葉やぬくもりが、ふとした瞬間に胸をかすめる。
湊は、何も言わず、ただ静かに彼女の心が揺れるのを待っているようだった。
焦らず、急かさず、それでも確かに近づいてくる。
——あの日で終わりにしたはずの感情が、まだ終わっていない。
湊の優しさの余韻が、今も胸の奥に残り続けていた。
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