その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜
仕事終わり、詩乃さんの家に向かう。
「おかえり」
詩乃さんの声が、ふわりと部屋に満ちる。
仕事終わりの疲れも、その笑顔一つで緩んでしまいそうになるのに。
今日はなぜか、それすら素直に受け取れなかった。
(……なんで、こんなに引っかかってんだろ)
自分でもわかってる。
子どもみたいで、みっともないって。
でも、どうしても言わずにいられなかった。
「……今日、久保田と、何話してたの」
洗濯物をたたんでいた彼女の手が止まる。
きょとんとした顔でこっちを見て、少しだけ首をかしげた。
「え? いや、別に……案件の進捗の話とか、雑談とか……普通のことだよ?」
「──楽しそうだったけど」
思ってた以上に、声が刺々しくなっていた。
詩乃さんは数秒だけ黙って、それから、ふっと微笑む。
「……もしかして、湊くん、拗ねてる?」
その一言が、図星すぎて言葉が出なかった。
否定しようとしたけど、口がうまく動かない。
仕方なく目を逸らすと、耳の裏がじんわり熱くなる。
「べつに。拗ねてねぇし」
「うん、拗ねてる」
少し嬉しそうに笑った彼女が、そっと俺の隣に座る。
そして、ごく自然に、俺の肩に頭を預けてきた。
「……湊くん」
「……なに」
「そういうの、嬉しいよ」
「……え?」
「嫉妬とか、やきもちとか。そういうのされると、ああ、特別なんだなって思えるから。安心する」
囁くような声に、心臓が跳ねた。
詩乃さんの体温がすぐそこにあって、息がかかるほどの距離で、
俺の感情だけが置いてけぼりになっていく。
「でもね、私が笑って返せるのは、湊くんがいてくれるからだよ」
彼女はまっすぐに俺を見つめて、ふわりと微笑んだ。
「……ほら、私のこと、好きすぎる人がここにいるから」
その言葉に、完全に撃ち抜かれる。
誰にでも見せる柔らかい笑顔じゃない。
俺だけが知っている、彼女の甘くてイタズラっぽい表情。
「……そういうとこ、ほんとずるい」
呟いたら、くすくすと笑われた。
その笑い声すら、俺の胸の奥をじんわり温かくする。
彼女の頬に指先を添え、そのまま優しく引き寄せた。
驚いたように目を瞬かせた彼女に、「目、閉じて」と囁く。
すぐに、すっとまつ毛が伏せられて。
その瞬間、俺は彼女の唇にそっと、自分の唇を重ねた。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
やわらかくて、あたたかくて、
ずっと触れていたくなるような感触。
もう何度目かわからないほど唇を重ねてきたのに、
触れるたびに、新しくて、
触れるたびに、もっと欲しくなる。
彼女の唇が、すこしだけ動いた。
それに応えるように、俺も角度を変えて、深く重ねる。
──この人を、誰にも渡したくない。
たった数秒のキスなのに、
胸の奥にあるそんな想いが、全部、伝わってしまいそうで怖いくらいだった。
やがて、ゆっくり唇を離すと、彼女が小さく息を吸う。
「……ねぇ」
「ん」
「もう少し、拗ねててもいいよ?」
すべてを包み込んでくれるみたいに微笑むその顔に、また胸が締めつけられる。
俺の全部が、この人に振り回されてる。
この人には、他の誰にも見せない顔がある。
それを、自分だけが知っているという事実が、
たまらなく、嬉しくて、幸せだった。
たったそれだけで、生きていけそうなくらい満たされるのに──
欲って、ほんとにキリがない。
明日もきっと、俺は“同僚”を演じるんだろう。
でももう、仮面をかぶってやり過ごすのは、そろそろ限界かもしれない。


