その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜
「——深雪さん」
耳元に落ちてきた、静かな低音。
驚いて顔を上げると、目の前には橘 湊の姿があった。
見慣れたスーツにコートを羽織り、ネクタイは少しだけ緩んでいた。
仕事の緊張をほどいたその姿に、ほんの少しだけ、柔らかい空気が滲んでいる。

「……橘くん? どうしてここに……」

「クライアントと外で会ってたんです。その帰りで。……信号、赤ですよ」

「え……」

視線を落とすと、目の前の信号は赤く染まっていた。

湊の手が、そっと詩乃の腕を引いてくれていたことに気づいて、胸がざわつく。

「……ありがとう」

そう告げる詩乃の顔を彼はジッと見つめ、一拍置いてから、静かに言葉を紡いだ。

「深雪さん。最近……無理してませんか?」

「…」

「ちょっとだけ、歩きません? 時間、大丈夫なら」

その声には、余計な詮索も、哀れみもなかった。

ただそこに“いてくれる”ような、穏やかで優しい温度があった。言葉にならない感情が、胸の奥にふわりと広がっていく。
詩乃は思わず小さく頷いていた。
——なぜだろう。

今にも崩れそうな自分を、彼には見透かされている気がした。

けれどそれが、どうしようもなく救いだった。
夜風が髪を揺らす。
横に並んで歩く湊の存在が、ひどく静かに、心に染み込んでくる。
——ああ、私、
こんなふうに、誰かに“隣を歩いてもらう”こと。
もう、ずっと忘れてたんだ。

その夜が、この物語のはじまりだった。

まだ、詩乃自身でも気づいていなかっただけで——。
< 5 / 39 >

この作品をシェア

pagetop